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大谷翔平、出るか2試合連続ホームラン24号「1番DH」でメッツ戦 5月の月間MVPに選出/速報します

ドジャースの大谷翔平選手は「1番DH」で先発出場を果たしました。前日には日本の野球界のレジェンド、長嶋茂雄終身名誉監督が逝去し、大谷選手は自身のインスタグラムでその死を悼む投稿をしました。試合では追悼の意を込めて23号のソロホームランを放ち、2試合連続ホームランとなる24号に期待が高まっています。 さらに、この日、大谷選手はナショナル・リーグ野手部門で5月の月間最優秀選手(MVP)に選ばれました。昨年9月以来の受賞で、5月としては初の快挙となりました。エンゼルス在籍時を含め通算6度目の受賞となり、自身が持つ日本人選手最多受賞記録を更新しました。 ドジャースは、左足つま先を骨折していたベッツ選手が2番ショートで復帰しました。 チーム123456789計 メッツ 0 ドジャース 0 大谷翔平第1打席 ドジャース大谷翔平(25年4月撮影)

【阪神】掛布雅之氏「1年だけでも同じグラウンドに立てた経験は一生の宝物」長嶋茂雄さん悼む

プロ野球の巨人の監督を2期15年にわたって務めた巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分、肺炎のため、都内の病院で亡くなった。89歳だった。   ◇   ◇   ◇阪神掛布雅之OB会長 同じ千葉出身で少年時代からの憧れ、野球にのめりこむきっかけとなった人でした。ルーキーイヤーと長嶋さんの現役最終年がかぶり、1年だけでも同じグラウンドに立てた経験は一生の宝物となりました。不振で悩んでいる時に自宅に電話をかけてきてくれて「今、バットを振ってみなさい」と指導を受けたことも思い出です。日本球界の太陽のような存在でした。突然の訃報に驚き、大きな脱力感に襲われています。長嶋茂雄さん死去89歳 数々の伝説残したミスタープロ野球/まとめ>>

松井秀喜氏 緊急帰国して長嶋茂雄さんと2時間超無言の対面 目潤ませ「2人きりで思い出を…」

元巨人でヤンキースGM付特別アドバイザーの松井秀喜氏(50)が米国から緊急帰国し、3日に肺炎のために亡くなった長嶋茂雄終身名誉監督と対面した。空港から直行し、4日午前4時57分、都内の恩師の自宅を訪れた。紺色のスーツに黒のネクタイ姿で訪れた松井氏を、次女の長島三奈さんが「おはようございます、松井さん」と出迎えた。午前7時10分すぎに弔問を終えて、報道陣の取材に応じた。2時間を超える無言の対面となったが「2人きりでずっといろいろな思い出を呼びおこしていました。今にも目を開けそうな…意志のあるという風に見えました」。さらに「一番は感謝です。監督との出会い、縁がなければ松井秀喜の野球人生は全く違った野球人生だったと思う」と、目を潤ませながら語った。松井氏は92年のドラフトで4球団が1位指名で競合。93年から巨人監督に就任することになっていた長嶋さんが、クジを引き当てた。師弟関係が始まると、入団からの1000日計画として、旧ジャイアンツ寮の一室でマンツーマンで直接指導し、素振りを繰り返した日々は伝説だ。ボロボロになった畳は“松井畳”として受け継がれ、後輩たちに多くの教えを授けてきた。松井氏も12年の引退会見で、選手生活で一番印象に残っていることを「長嶋監督と2人で素振りした時間」と答えていた。「これだけ年が離れた選手の中で、長嶋茂雄を一番理解してるのは自分だと自負しているし、それをつないでいくのも自分かな。次の世代につなぐのが使命」。長嶋イズム継承への思いをそう語ったこともある。松井氏は、長嶋さんが01年限りで監督を勇退して終身名誉監督となった後、02年オフにFA権を行使し、MLBへの挑戦を表明した。ヤンキースに移籍後、長嶋さんがニューヨークに観戦に訪れた際にも、マンハッタンのホテルで2人で素振りをする時間があったという。13年には2人同時に国民栄誉賞を受賞。21年の東京五輪では王貞治氏(85)も加え、3人で開会式の聖火ランナーを担った。松井氏は昨年5月3日の「長嶋茂雄DAY」と銘打たれた東京ドームでの阪神戦ではセレモニアルピッチを務め「プロ野球の歴史を振り返っても、必ず長嶋茂雄という名前は一番。私の中でも一番、大きな存在。今年はジャイアンツが90周年ですが、100年たっても、150年、200年たっても、長嶋茂雄という名前は語り継がれると思います」と語っていた。長嶋茂雄さん死去89歳 数々の伝説残したミスタープロ野球/まとめ2>>

** 松井秀喜氏「今にも目を開けそうなくらい意思のある感じでした」恩師長嶋茂雄さん弔問/一問一答 **

** 元巨人で現ヤンキースGM特別アドバイザーの松井秀喜氏(50)は米国から急遽帰国し、3日に肺炎で逝去された長嶋茂雄終身名誉監督と対面しました。空港から直行して、4日午前4時57分、都内にある恩師の自宅を訪れました。 深紺のスーツに黒のネクタイ姿で訪れた松井氏を、次女の長島三奈さんが「おはようございます、松井さん」と迎え入れました。 午前7時10分過ぎに弔問を終えた松井氏は、集まった報道陣の取材に応じました。 以下は一問一答の内容です。 -長嶋さんとの対面はどのような時間でしたか? 三奈さんから「2人きりでお話ししてくださいね」と言っていただき、2人きりでいろいろな思い出を振り返りました。 -長嶋さんのご様子は? まるで今にも目を開けそうなほど、意思のある感じでした。 -どのような言葉をかけましたか? 本当にたくさんありすぎて、説明するのは難しいですが、やはり一番は感謝です。監督との出会いがなければ、松井秀喜という野球選手は全く違った野球人生を送ったことでしょう。監督にドラフトで選んでいただいたことに始まり、その後の2人の時間、そして私に授けて頂いたすべてに対し、「ありがとうございました」とお伝えしました。素振りを通じて対話したようなもので、野球選手として最も大事な部分を教えてくださったのです。松井秀喜という野球選手に、最も大切なことを授けてくださったので、非常に幸運で、心から感謝しています。

【訃報】長嶋茂雄さんが89歳で死去 ミスタープロ野球が残した数々の伝説

プロ野球の巨人軍で2期15年にわたって監督を務めた巨人軍終身名誉監督、長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分に肺炎のため都内の病院で亡くなりました。享年89歳でした。 記録・伝説・語録 球界悼む 各界悼む メディア、SNSなどの反応 担当記者悼む 長嶋茂雄氏の年度別成績 長嶋茂雄氏の年度別監督成績 ◆長嶋茂雄(ながしま・しげお)1936年(昭和11年)2月20日、千葉県印旛郡臼井町(現佐倉市)生まれ。佐倉一高(現佐倉高)から立教大学に進学し、杉浦、本屋敷と共に黄金時代を築き、首位打者2回を誇り、東京6大学の新記録となる通算8本塁打を放ちました。 巨人入団1年目の1958年に打率3割5厘、29本塁打、92打点で本塁打王、打点王に輝き、新人王を受賞しました。1959年6月25日の天覧試合(対阪神)では同点本塁打とサヨナラ本塁打を記録し、王貞治との「ON砲」で1965年からの巨人V9を支えました。1974年に現役引退するまでMVP5回、首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回を獲得し、「ミスター・ジャイアンツ」として球界最大のスーパースターとなりました。 巨人監督に就任した1975年は球団初の最下位を経験しましたが、監督としては1975~1980年、1993~2001年の計15年間務め、リーグ優勝5回(1976年、1977年、1994年、1996年、2000年)、日本一2回(1994年、2000年)を達成しました。アテネオリンピック日本代表監督として2003年のアジア予選は3戦全勝で五輪出場を決めましたが、2004年の本戦では病気のため采配を振るうことができませんでした。 1988年に野球殿堂入り。現役時代は身長178センチ、体重76キロ、右投げ右打ち。家族には亡き亜希子夫人(2007年9月18日、64歳で死去)との間に長男一茂さん(元プロ野球選手)、長女有希さん、次女三奈さん(フリーアナウンサー)、次男正興さんがいます。 長嶋茂雄氏(2019年9月27日撮影)

【DeNA】三浦監督「五輪ユニホームはサインをいただいてずっと飾っている」長嶋茂雄さん追悼

プロ野球の巨人の監督を2期15年にわたって務めた巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分、肺炎のため、都内の病院で亡くなった。89歳だった。   ◇   ◇   ◇▽DeNA三浦監督(04年アテネ五輪メンバー)「朝からニュースを見てびっくりしましたし、残念です。アテネ五輪では長嶋監督のもとで日本代表のユニホームを着て戦わせていただいた。ご病気でアテネの方には行かれられなかったですけど、『アテネ会』という子どもたちへの野球の伝道師として、野球教室で毎年1回お会いさせていただいて。五輪のユニホームはサインをいただいて、ずっと家に飾っています。うちの家宝ですね」▽DeNA高田繁元GM(巨人のV9戦士で76年には「長嶋巨人」の初優勝に貢献)「長嶋さんとは前人未到のV9という時代をともに過ごしただけでなく、長嶋さんの監督1年目というとてもつらい時間も一緒に過ごさせてもらいました。長嶋さんは常に前向きに、野球を楽しもう、そしてファンファーストの精神でお客さんを喜ばせようということを考えられていた人でした。これは今のプロ野球選手にも通ずる、必要な姿勢だと思います。本当にお疲れさまでした」▽DeNA南場智子オーナー プロ野球界の元気、日本の元気を支えて来られた偉大な存在を失い、深い悲しみを覚えます。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。長嶋さんのお心を引き継ぎ、未来につなぐよう努力してまいります。長嶋茂雄さん死去89歳 数々の伝説残したミスタープロ野球/まとめ>>

ドジャースの大谷翔平が5月の月間MVPを受賞、6回目の栄誉で日本人最多記録を更新 – 15本塁打を記録

メジャーリーグベースボール(MLB)は3日(日本時間4日)に、5月の月間最優秀選手(MVP)を発表しました。ナショナルリーグからはロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平選手(30歳)が選ばれました。今までに6回目の受賞となり、昨年9月以来の快挙です。5月に大谷選手は、自己最多に並ぶ15本のホームランを打ち、打率3割9分、そして17打点とチームをリードしました。さらにOPS(出塁率+長打率)は驚異的な1.180という数字を記録しました。驚くべきことに、5月に2度も3試合連続ホームランを達成し、6月までに63得点に達したのは、1901年以降の現代野球における初の記録でした。一方、アメリカンリーグではニューヨーク・ヤンキースのアーロン・ジャッジ選手(33歳)が月間MVPに選出されました。5月の成績は打率3割6分4厘、11本のホームラン、18打点で、OPSは大谷選手を上回る1.251を記録しています。ジャッジ選手にとっては、4月に続いて2カ月連続、そしてキャリアで11度目の受賞となります。

原辰徳氏「懐が大きくてかわいがってくれた」巨人の監督を託してくれた長嶋茂雄さんを追悼

巨人の前監督、原辰徳氏(66)にとって、長嶋茂雄さんは特別な存在でした。 長嶋選手に憧れを抱いて野球を続け、巨人に入団しました。そして、1993年には長嶋さんが再び巨人の監督として復帰しました。彼が監督を務めた1995年には引退を決断しました。その後、野手総合コーチとして再び巨人のユニホームに袖を通しましたが、それも長嶋監督の下でのことでした。 都内のホテルで、長嶋監督からコーチの依頼を受けた際、原氏は自分を厳しく扱った長嶋監督に「ひとつだけ約束してほしいことがあります。私をかわいがってください」とお願いしました。「分かった」の一言で、すべてのわだかまりを捨てたのです。 その言葉に偽りはありませんでした。コーチに就任した直後、送りバントが簡単に行われるチームに変化を加えようとしました。長嶋監督に「送りバントが出そうなときは、すべてチャージをかけるようにしていいですか?」と許可を求めました。ただ、しばらくすると相手にも察知され、ヤクルトの野村監督にはバスターエンドランに切り替えられ、苦い経験もしました。 「やってみないと分からないことがあります。やはり臨機応変に戦わなければなりません。長嶋監督は、それを理解して許可を出してくれたと思います。それは大きな学びでしたが、長嶋監督には迷惑をかけました。この恩を返さなければなりません」 2000年の日本シリーズで、ダイエー(現ソフトバンク)との“ON対決”は話題を集めました。しかし、巨人は2連敗というスタートを切りました。 「あの年の日本シリーズは変則日程で、2戦目の後に1日も空くことなく福岡ドームで試合でした。連敗でチームのムードは悪かったのですが、長嶋監督は“明日はオーダーを変えるぞ”と一言。その迫力とオーラは素晴らしいものでした。チームの雰囲気も一変し4連勝を達成して日本一になりました。当時の巨人はオーダーを固定することが多かったのですが、短期決戦では違いました。長嶋監督だからこそ、効果があったのでしょうが、新しい戦い方を学びました」 そして、長嶋監督が2001年シーズンの終盤に勇退する際、密かにヘッドコーチの身分のまま采配を任されました。 「あの時、長嶋監督は退くことを決めていたのでしょう。それで経験を積ませてくれたのだと思います。最終戦の後、“来年からは君のチームだ”と託してもらいました。監督として、人間として懐の大きいお方で、本当に自分をかわいがってくれました」 監督に就任した際には、背番号を「83」に決めました。これは長嶋監督の野球を継承する意志を込めて、自分の現役時代の「8」と長嶋氏の「3」を組み合わせた番号でした。その説明に偽りはありませんが、感謝の気持ちで長嶋監督とともに戦いたかったのです。【小島信行】

スーパースターの本音「長嶋茂雄であり続けるのは大変です」努力、痛みを見せずに野球を国民的競技へ

偉大なプロ野球選手が旅立ちました。巨人軍の終身名誉監督だった長嶋茂雄さんが3日午前6時39分、肺炎のため都内の病院で亡くなりました。享年89歳でした。全国的に愛されたスーパースターとして、長嶋さんは戦後の復興時期から高度経済成長を支え、日本を照らし続けました。巨人の監督としても5度のリーグ優勝と2度の日本一を成し遂げました。2004年に病に倒れた後も野球界へ深い愛情を注ぎ、最近はドジャースで活躍する大谷翔平選手(30)のパフォーマンスを心から喜んでいました。日本の野球界に多大な貢献をした人物が静かにその人生の幕を閉じました。葬儀と告別式は近親者のみで行われ、喪主は次女の三奈さんです。後日、長嶋さんを偲ぶ会が催される予定です。  ◇  ◇  ◇ついにこの日が訪れました。長嶋さんが亡くなった日、89歳の6月3日。野球と背番号「3」に深い愛情を持っていた長嶋さんにふさわしい最後でした。長嶋さんとの「出会い」は1974年(昭和49年)10月14日でした。当時9歳だった私は母の実家で遊んでおり、20代後半の叔父がテレビの前で直立不動になり、涙を流していました。画面では長嶋さんが引退セレモニーで涙をぬぐっていました。「大の大人を泣かせるこの長嶋という人はどんな人物なんだろう」。その光景は子供心に強烈に刻まれました。記者となり、長嶋巨人を担当することで、子供時代の疑問に答えを求めました。仕事で対面して話すことがありましたが、長嶋さんからは不思議と「口臭」を感じたことがありませんでした。瞳も青みがかっており、独特の透明感がありました。確かに普通とは違うオーラが感じられました。しかし、本当に人々を引き付けたのは、そのシンプルな魅力でした。「期待に応えたい、みんなを喜ばせたい」現役時代も監督時代も、長嶋さんはまずカメラマンの位置を確認し、どのポーズが良い写真になるかを考えていました。大差で負けている試合でも投手をつぎ込む理由を「ファンがあきらめていないのにあきらめるわけにはいかない」と語り、松井秀喜には「我々にとっては130分の1かもしれないが、一生に一度のファンもいる」と伝え、毎日全力でプレーすることを望んだのです。努力する姿は見せませんでした。現役時代には足の指を骨折しても口笛を吹いて球場を去り、家に帰ると関係者に氷を用意させたこともありました。監督時代は試合前にすべてシミュレーションし、思い通りにならなかった時には帰り道でストレスを解消していました。「『長嶋茂雄』を続けるのは大変ですよ」と冗談交じりに話していたこともありますが、それでも苦しい部分を見せず、常に明るく華やかに振る舞いました。その姿勢は、多くの人の期待を受け止め、その期待に全力で応えることに喜びを感じているようでした。王貞治氏らとともに巨人のV9を導き、プロ野球を日本の最も人気のあるスポーツに押し上げた存在です。その土台の上に原辰徳、掛布雅之、イチロー、松井、そして大谷翔平が存在します。長嶋さんがいなければ、そしてもしも「長嶋茂雄」でなかったら、数々のスーパースターは誕生したでしょうか。長嶋さんは亡くなりましたが、「ファンを一番に考え、期待に応えるために努力を惜しまない」長嶋さんの精神は続いていくことでしょう。願わくは、その精神が永遠に。【元巨人担当・沢田啓太郎】

【ヤクルト】ついにプロ野球ワースト達成…13試合連続で2得点以下 深刻な貧打で6連敗、負け越し18

ヤクルトはサヨナラ負けを喫し、プロ野球では前例のない13試合連続の屈辱的な記録を更新し、6連敗となりました。延長11回、1アウト一、二塁からセデーニョが三塁と遊撃手の間に内野安打を放ちました。遊撃手の伊藤がボールを三塁へ投げる際に悪送球し、ボールがファウルゾーンへと進む間に決勝点を献上しました。西武の先発投手隅田に対して、9回途中までに8安打を放ちながらも得点することができませんでした。0-0の9回、2アウト一、三塁のチャンスでは、オスナが2番手ウィンゲンターに対してライトフライに倒れ、あと一打が出ませんでした。5月18日のDeNA戦から続く13試合連続で2得点以下は、1962年の国鉄(現ヤクルト)と1993年の巨人の12試合を超え、プロ野球のワースト記録となりました。今回も“2点の呪縛”から逃れることができず、借金は18になりました。