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松井秀喜氏「バット持ってこい。今はその声を聞きたいです」長嶋茂雄さんの告別式で弔辞

3日に89歳で死去した巨人長嶋茂雄終身名誉監督の通夜が7日、告別式は8日、都内の桐ケ谷斎場で執り行われた。喪主は次女・三奈さん(57)、葬儀委員長は読売新聞グループ本社代表取締役社長で読売巨人軍取締役オーナーの山口寿一氏(68)が務めた。96人が参列した告別式では、元巨人の松井秀喜氏(50=ヤンキースGM付特別アドバイザー)が弔辞のあいさつを行った。   ◇   ◇   ◇   監督、きょうは素振りないですよね? その目を見ていると、「バット持ってこい。今からやるぞ」と言われそうでドキッとします。でも、今はその声を聞きたいです。ドラフト会議で私を引き当ててくださり、満面の笑みで親指を突き上げてくれました。タイガースファンだった私は、心の中でちょっとズッコケました。しかし、その後、すぐに電話で「松井君、待ってるよ」と言ってくださり、あっという間に私の心は晴れました。監督はひとたびユニホームを着てグラウンドに出ると、強烈な光を発し、私と二人で素振りをする時は、バットマン長嶋茂雄になりました。それが私の日常でした。監督が引退された年に生まれた私は、監督の現役時代をともに過ごした方々と同じ気持ちになりたくてもなることはできません。その時代を生きていません。ですが逆に、私はその、野球の神様、長嶋茂雄というものを、肌で感じていないからこそ、普段、普通の自分自身で接することができました。それが私にとって、非常に幸運だったと思っております。監督を退任する日、私は最後の素振りだと思って、振っている途中、涙が止まりませんでした。これが最後の素振りになると思ったからです。「何泣いてんだ。タオルで涙ふいて、ほら振るぞ」。そう声をかけてくださいました。それが最後だと思っていましたが、翌日もやりましたね。そして、次の年も次の年もやりました。私は長嶋茂雄から逃げられません。これからもそうです。それが私の幸せです。監督、私は現役時代に一度だけ監督にお願いしたことを覚えていますか。私はセンターを守っておりましたが、「監督、どうせなら私、サードやらしてくださいよ」とお願いしました。そしたら、「お前はサードじゃないよ。お前はやっぱりセンターだ。俺はお前をジョー・ディマジオにしたいんだ」とおっしゃってくださいました。私は全くピンときておりませんでした。ある日、素振りで監督のご自宅にお邪魔した時、私はそこにジョー・ディマジオのバットとジョー・ディマジオの大きな写真があることに気づきました。見逃しませんでした。監督は本当にジョー・ディマジオが好きなんだなと思って、また、その選手のようになれと言ってくれたことに、本当にその時、幸せに感じました。それから私は喜んでセンターが大好きになりました。その時、監督は、私がジョー・ディマジオと同じユニホームを着て、同じグラウンドでプレーすることを夢に思っていなかったと思います。もちろん、私も思っていませんでした。私が引退して、監督に挨拶に行った時、「監督がジョー・ディマジオって言ったから、私、ヤンキースに行ったんですよ」って言ったら、この笑顔を見せてくださいました。その時、初めて私は、大好きなジャイアンツを去ることになりましたが、これで良かったんだと思いました。そして、今も遠い離れた場所にいます。日本に帰ってくるたび、監督にご挨拶に行くと、監督の言いたそうなことを、言おうとするのに言わない。でも、その気持ちはいつも受け取っておりました。これからも監督が、なぜ私だったのか、なぜ私にたくさんのことを授けてくださったのか。その意味を、その答えを、自分自身が心の中で、監督に問い続けます。今度は、私が監督を逃がしません。ですから、今日は「ありがとうございました」も、「さようなら」も、私は言いません。今後も引き続き、よろしくお願いします。そして、その強烈な光で、ジャイアンツの未来を、日本の野球の未来を照らし続けてください。【まとめ】長嶋茂雄さん死去89歳 伝説残したミスタープロ野球 通夜、告別式で最後の別れ/1

【ボクシング】中谷潤人が2団体王座統一、西田凌佑に6回TKO勝利 壮絶打ち合いの驚きの結末

WBC世界バンタム級王者の中谷潤人(27=M・T)が、初の王座統一を果たしました。IBF世界同級王者の西田凌佑(28=六島)に対して6回終了TKOで圧勝。この全勝の日本人同士の頂上決戦を、3階級制覇王者の中谷が制しました。自身10度目の世界戦で、プロデビュー以来国内タイ記録となる31連勝を達成し、「バンタム級最強」を証明しました。今後はスーパーバンタム級への階級変更を予定しており、来春には4団体統一世界同級王者の井上尚弥(32=大橋)とのビッグマッチを目指します。   ◇   ◇   ◇試合は突然の結末を迎えました。7回開始直前に試合が終了し、勝利が決まった中谷は控えめに両腕を掲げました。そして、力なくイスに座る西田に声をかけられました。リング上には2つのチャンピオンベルトが運ばれました。左肩にはかつての勝ち取った記念すべきベルトが、右肩には新たな赤いベルト。これまで2つの階級で果たせなかった統一を遂に成し遂げた喜びを示しました。「日本人にとって親しみ深い階級で統一できたことが嬉しい。自信に繋がった」と中谷は語りました。「ブラックホール」を「ビッグバン」が飲み込みました。守備力に長けた強敵にするりと驚きを与えたのです。「皆さんを驚かせたい」と語り、エンターテインメント性を重視したアプローチのもと、初回から攻撃を重ねました。相手の右目を腫らし、右肩を脱臼させるほどの破壊力を見せました。「これがチャンピオン同士の戦い。誇らしい結果だ」と中谷は胸を張りました。10度目の世界戦でまた一つの節目を迎えました。2015年4月にプロデビューしてから31連勝を記録。この勢いで、元2階級制覇王者の亀田和毅(TMK)、元東洋太平洋、日本バンタム級王者のサーシャ・バクティン(協栄)と肩を並べました。そのうち24試合がKO勝ち。米老舗専門誌ザ・リングの最強ランキング「パウンド・フォー・パウンド(PFP)」で7位に昇りつめ、世界でもその存在感を一層高めています。来春の日本のボクシング界を揺さぶるビッグマッチに向けて着々と前進中です。3月のボクシング年間表彰式で、1階級上の井上から「1年後の東京ドームで」との突然の提案を受け、握手でそれに応じました。準備は着々と進んでいます。西田戦に向けてのアメリカ合宿では1カ月間トレーニングを重ね、現地には栄養士も帯同しました。帰国後も減量計画を続け、身体改造をし通しています。この日は無敗の状態を保ちながらスーパーバンタム級へ転向し続ける「怪物」を目指し、リング脇でその様子を見守っていました。2つのベルトを持ちながら「もうすぐ行くので待っていてください」と宣言しました。この実現のために、3階級王者中谷は次の舞台に立ち上がります。【飯岡大暉】【ラウンドVTR】1回 中谷は30戦全勝、西田は10戦全勝。サウスポー同士の全勝王者の対戦で、熱い王座統一戦が幕を開けました。最初から中谷が猛攻を仕掛け、得意の右アッパーを軸にして、力強い左フックを繰り出しました。西田はガードを固めて、カウンターの左ボディーフックを当てる熱戦が展開されました。ニッカン採点は中谷10-9 2回 西田はガードを高く保ちながら徐々に前に出て、相手のパンチをブロックし、左ボディーアッパーを軸に攻撃を仕掛けました。中谷は強烈な左フックを次々に放ち、接近戦で相手のガードを破るように右アッパーを繰り出しました。ニッカン採点は中谷10-93回 西田は左フックをカウンターでヒット、クリンチを引き出しました。前進しつつも、左ストレートを顔面にヒットさせました。中谷は力を入れたフックを放つが、精度が落ちるシーンも。両者はボディーを攻め合う展開になりました。ニッカン採点は西田10-9 4回 西田はコンパクトなストレートで中谷の顔面を的確に捉えました。接近戦でも細かいパンチを正確にヒット。中谷は強振のフックだけが目立ち、命中率の低さが課題でした。ニッカン採点は西田10-95回 中谷が左ストレートのクリーンヒットを軸に一気に攻める。西田のクリンチを振りほどき、偶然のバッティングで右目が腫れ上がり、終末にはドクターのチェックが入りました。ニッカン採点は中谷10-9 6回 中谷はゴングと共に攻勢をかけ、右フック、左ストレートを連発。西田の右目は大きく膨れ上がり、ほぼ目が閉じた状況に。試合はそのまま終わりました。ニッカン採点は中谷10-9◆中谷潤人(なかたに・じゅんと)1998年(平10)1月2日、三重・東員町生まれ。幼少時から空手を学び、中学1年からボクシングを始めました。単身でアメリカへ渡り、ルディ・エルナンデス・トレーナーのもとで修行を積み、アマチュア14戦12勝2敗。同年4月にプロデビューし1回TKO勝ち。16年に全日本フライ級新人王、17年に日本同級ユース王座を獲得、19年には日本同級王座を取得しました。20年11月にはWBO世界フライ級王座、23年5月にはWBO世界スーパーフライ級王座、24年2月にはWBC世界バンタム級王座を確保。173cmの左ボクサーファイターです。

【ボクシング】那須川天心が10回判定勝利、11月世界初挑戦への大きな一歩「たくさんの課題が成果」

無敗の格闘家でありながらWBA世界バンタム級1位にランクされる那須川天心選手(26=帝拳)が、世界へ向けた前哨戦を無事にクリアしました。対戦相手はWBA世界同級6位のビクトル・サンティリャン選手(29=ドミニカ共和国)。ノンタイトル戦で3-0の判定勝ちを収めました。ボクシング転向から7試合目となる試合で、見事に世界ランカー対決を制して、今年11月に予定される首都圏での世界初挑戦への大きな一歩を踏み出しました。 「収穫は、課題がたくさん見つかったことですね。思ったよりうまくいきませんでしたが、これが自分の実力。これからも一歩一歩進んでいきたい」(那須川)。 那須川選手は、日本の同級世界王者の多くがサウスポースタイルであることから、ボクシング転向後初めてサウスポーとの対決に挑みました。「チャンピオンにはサウスポーが多いので、それを意識しての試合でした。いろいろな経験を積んでおきたかった。今回の対戦相手の中で一番強い相手を選びました」と、サンティリャン選手の打破に集中していました。スパーリング相手には4団体統一スーパーバンタム級王者の井上尚弥選手(大橋)の練習パートナーとしても経験のある、積極的なエリック・ロブレス選手(25=メキシコ)を招待し、週3回のペースで実践練習を重ね、この試合が重要なテストマッチになりました。 那須川選手はアマチュアで200戦以上を経験し、プロでも14勝(5KO)1敗という実績を持つ世界6位のサンティリャン選手に対して警戒心を持っていました。「生半可な気持ちで勝てる相手ではない。心の準備、気持ち、体をすべて整えてきた。いつでも戦えるぞという準備をしていました」と、決意を強調しました。 那須川選手はまた、「相手も強かったし、厄介なタイプでした。でも、ノックアウトを狙いつつ完璧に戦い切ることを目指しました。どんな形であれ、勝つことが最優先」と自らに高い目標を課し、リングに立ちました。 「どの格闘技でも番狂わせは起きるもの。でもボクシングはまだ7戦目ですけど、キックボクシングでは50戦以上無敗でこれが自分の自信になっています。変わらず進んでいきたいです」と語る那須川選手は、常に最高のパフォーマンスを求めてステップアップし続け、ついに世界挑戦への切符を手にしました。 ◆那須川天心(なすかわ・てんしん)は1998年(平成10年)8月18日、千葉・松戸市生まれ。5歳で空手を始め、小学5年でジュニア世界大会優勝後、キックボクシングに転向。14年7月に15歳でプロデビューし、16歳でRISEバンタム級王座を獲得しました。そして今や、165センチの左ボクサーファイターとして、ボクシング界でも注目されています。 【ラウンドVTR】

王貞治氏「私にとっては、長嶋さんは超普通の人でした」長嶋茂雄さん告別式/弔辞全文

3日に89歳で死去した巨人長嶋茂雄終身名誉監督の告別式が8日、都内の桐ケ谷斎場で執り行われた。喪主は次女・三奈さん、葬儀委員長は読売新聞グループ本社代表取締役社長で読売巨人軍取締役オーナーの山口寿一が務めた。96人が参列した告別式では、王貞治氏が弔辞のあいさつに立った。  弔辞。長嶋茂雄さん。あなたへの弔辞を読む日がこんなに早く来るとは思ってもいませんでした。あなたは日本の健康優良児でした。存在そのものが、日本人の誇りでした。グラウンドでは、一挙手一投足が、日本中のファンの心を引きつけました。日本中があなたを追いかけました。大変だったと思いますが、あなたは嫌な顔一つせず、常に明るく存在していました。太陽のように光を放っていました。本当に特別な存在でした。そんなあなたに私は迷惑ばかりかけていました。昭和34年、私が入団した年の宮崎キャンプで同室にさせられ、世間知らずの私は、部屋の片付け、布団の上げ下げなどすることもできず、揚げ句に、寝相は悪いは、いびきはかくはで、迷惑をかけっぱなしだったようで、1週間で部屋を替えさせられましたが、その間、長嶋さんは一言も文句を言いませんでした。アメリカで、ベロビーチでキャンプした時、ロサンゼルスで1泊して、フロリダに飛んだんですが、その出発の日の朝、私が寝坊してしまい、長嶋さんが天窓から部屋に入ってくれて、私を起こし、荷物をまとめてくれたので、飛行機に乗り遅れることはなく済んだこともありました。私にとっては、長嶋さんは超普通の人でした。長嶋さんは私に普通人として接してくれました。長嶋さんには頭が上がりませんでした。足を向けて寝られない人でした。そんな大恩人の長嶋さんとのこんなお別れは、到底受け入れられません。皆さんも同じだと思います。しかし、そうは言っても、現実に引き戻されてしまいます。あとは、静かに、静かにお見送りするのみです。長嶋さん、ありがとうございました。あなたとの六十有余年、私にとっては忘れることのできない貴重な年月でした。感謝するしかありません。89年間、よくぞ頑張ってくれました。日本人のために頑張ってくれました。ありがとうございました。安らかにお眠りいただくことを願うのみです。「長島茂雄」に戻ってゆっくりとお眠りください。さようなら。【まとめ】長嶋茂雄さん死去89歳 数々の伝説残したミスタープロ野球/1>>

「王会長と父は本当のライバル?」長嶋茂雄氏の葬儀で三奈さんが明らかにした、父親の涙と笑顔の関係

3日に肺炎のため89歳で亡くなった巨人軍の永遠の名誉監督、長嶋茂雄氏の通夜と告別式が東京都内の桐ケ谷斎場で執り行われました。喪主を務めた次女の三奈さんが、長嶋茂雄氏と「ON砲」として活躍したソフトバンクホークスの王貞治球団会長(85)について語りました。長嶋茂雄氏は3日の午前6時39分に息を引き取りました。遺体が病院から家に戻った時、最初に駆けつけたのが王会長でした。三奈さんは、「6月3日、午前6時39分に父は永遠の眠りにつきました。そのわずか7時間後、一番最初に駆けつけてくれたのが王貞治会長です。王会長に心から感謝します。父は、王会長が巨人軍に入団し最初に出会った日のことを60年経った今でも鮮明に覚えていました。父は上野駅で学生服を着た王会長が歩いてくる姿を見て、『なんて大きな体をしているんだ。目も大きくて、とても立派な体だ』と驚いたそうです。父が会長の話を始めると、いつも笑顔が絶えませんでした」と明かしました。さらに、「以前、私が『王さんとパパはライバルだったの?』と尋ねたことがあります。父はすぐに『違うよ、三奈ちゃん。王さんとパパはね、二人で一緒に巨人を強くしよう、二人で一緒に日本一のチームを作ろうって、ずっと同じことを考えて頑張ってきたんだ。パパが打てなかったときは、王さんが打ってくれたし、王さんが打てないときがあったら、今日は俺が打つぞって思っていたんだ』と、微笑んで話してくれました」と語りました。最後に、「不思議ですが、父が王会長のことを話す時は、いつも笑顔で、でも涙を浮かべていました。涙ぐみながら笑顔で思い出話をするのは、父にとっては王会長だけだったのです。最後まで父に寄り添っていただき、本当にありがとうございました」と、王会長との思い出を締めくくりました。 長嶋氏を乗せた車は7日午後2時33分に自宅を出発しました。午後3時13分から24分の間に東京ドーム周辺(黄色いビル前→水道橋交差点、壱岐坂下交差点→東京ドーム前)を通過し、午後4時3分に斎場に到着しました。祭壇は三奈さんの希望によりジャイアンツカラーで彩られ、背番号3のユニフォーム、天覧試合でのホームランバット、松井秀喜氏と共に受賞した国民栄誉賞の金のバット、天皇陛下から授与された勲記と文化勲章が飾られました。通夜の参列者は126名。そのうち、親族では長嶋一茂氏を含む27名がいました。巨人関係者はV9のチームメンバーや監督時代の選手、コーチら62名で、現在のチームからは阿部慎之助監督や二岡智宏ヘッド兼打撃チーフコーチなど、13名が参列しました。

【参列者一覧】長嶋茂雄さん通夜に落合博満氏、清原和博氏、松井秀喜氏ら巨人OB

3日に89歳で死去した巨人長嶋茂雄終身名誉監督の通夜、告別式が都内の桐ケ谷斎場で執り行われた。喪主は次女・三奈さん(57)、葬儀委員長は読売新聞グループ本社代表取締役社長で読売巨人軍取締役オーナーの山口寿一氏(68)が務めた。弔辞は堀内恒夫氏(77)と原辰徳氏(66)が読み上げた。7日に行われた通夜の参列者は126人。親族は長嶋一茂氏ら27人、巨人関係者はV9のチームメート、監督時代の選手、コーチが62人参列した。巨人OBの参列者は以下の通り(順不同、敬称略)阿野鉱二、上田武司、江藤省三、王貞治、河埜和正、柴田勲、末次利光、杉山茂、高田繁、新浦壽夫、原田治明、広野功、堀内恒夫、吉田孝司、黒江透修、横山忠夫、江川卓、江藤智、大久保博元、岡崎郁、淡河弘、小俣進、鹿取義隆、金石昭人、清水隆行、高橋由伸、中畑清、所憲佐、仁村薫、原辰徳、張本勲、樋澤良信、福王昭仁、藤城和明、松井秀喜、松本匡史、村田真一、元木大介、吉村禎章、浅野啓司、阿波野秀幸、井端弘和、上原浩治、上田和明、上野裕平、大塚淳弘、岡島秀樹、落合博満、大森剛、川口和久、川中基嗣、清原和博、香坂英典、斎藤雅樹、笹本信二、條辺剛、鈴木章介、高田誠、堀田一郎、宮本和知、槇原寛己、原俊介現在のチームからは阿部慎之助監督、二岡智宏ヘッド兼打撃チーフコーチ、橋上秀樹作戦戦略コーチ、村田善則総合コーチ、亀井善行打撃コーチ、古城茂幸内野守備コーチ、松本哲也外野守備兼走塁コーチ、杉内俊哉投手チーフコーチ、内海哲也投手コーチ、實松一成バッテリーコーチ、ウィーラー巡回打撃コーチ、丸佳浩外野手、岡本和真内野手の13人が参列した。長嶋茂雄さん死去89歳 数々の伝説残したミスタープロ野球/まとめ>>

長嶋茂雄さん葬儀、次女三奈さん「恥ずかしながらも娘としては誇りに」人を笑顔にさせる逸話の数々

肺炎のため3日に89歳で死去した巨人長嶋茂雄終身名誉監督の通夜、告別式が都内の桐ケ谷斎場で執り行われた。喪主を務めた次女・三奈さんが、長嶋さんの愛されたおちゃめな一面を、喪主あいさつで語った。三奈さんは「父は本当に耳もいいですし、記憶力もいいんですが、なぜか選手の皆様のお名前はよく間違えておりました」と話した。「上原浩治さんに、上原さんいらっしゃると思うんですが、上原浩治さんにお会いしたときには、『監督、僕のことをずっと二岡って呼ぶんですよ』って。すみませんって言いながら、また、ある時は桑田真澄さんにお会いしたときは、『監督、僕のことを最後までクワダって言っていました』。娘としてはちょっと恥ずかしかったんですが、もう父の話が出ると、もう周りの方が皆さん、一瞬にして笑顔の花がぱっと咲いて、父ってどこにいてもいろんな方を笑顔にするんだな、もう野球と関係ないのに笑顔で包んでくれるんだなと、ちょっと恥ずかしながらも娘としては誇りに思っておりました」と語った。続けて「そんな父ですので、皆さん、どうかこれからも笑顔で笑い声をあげながら、父のことを話していただければなと思います。そして本日は、読売新聞グループ本社様の多大なるお力添えを賜りまして、父らしい温かい通夜を執り行うことができました。家族・親族を代表しまして、心より御礼申し上げます。誠にありがとうございました」と語った。 長嶋さん棺を乗せた車は7日午後2時33分に自宅を出発。同3時13分から24分にかけて東京ドーム周辺(黄色いビル前→水道橋交差点、壱岐坂下交差点→東京ドーム前)を通り、同4時3分に斎場に到着した。祭壇は三奈さん希望でジャイアンツカラーで彩られ、背番号3のユニホーム、天覧試合でホームランを打った時に使用したバット、松井秀喜と一緒に授与した国民栄誉賞の金のバット、天皇陛下から直々に授与された勲記と文化勲章が飾られた。通夜の参列者は126名。うち、親族は長嶋一茂氏ら27人、巨人関係はV9のチームメート、監督時代の選手、コーチが62人、現在のチームからは阿部慎之助監督、二岡智宏ヘッド兼打撃チーフコーチ、橋上秀樹作戦戦略コーチ、村田善則総合コーチ、亀井善行打撃コーチ、古城茂幸内野守備コーチ、松本哲也外野守備兼走塁コーチ、杉内俊哉投手チーフコーチ、内海哲也投手コーチ、實松一成バッテリーコーチ、ウィーラー巡回打撃コーチ、丸佳浩外野手、岡本和真内野手の13人が参列した。【まとめ】長嶋茂雄さん死去89歳 伝説残したミスタープロ野球 通夜、告別式で最後の別れ/1

【喪主挨拶全文】長嶋茂雄さんの葬儀での三奈さんの挨拶「父の太陽のような笑顔で長嶋家はいつも青空でした」

3日に89歳で亡くなられた読売巨人軍の長嶋茂雄終身名誉監督の通夜と告別式が、都内の桐ケ谷斎場にて執り行われました。喪主として次女の三奈さん(57)が務め、葬儀委員長は読売新聞グループ本社社長であり、読売巨人軍のオーナーでもある山口寿一氏(68)が担当しました。弔辞は堀内恒夫氏(77)と原辰徳氏(66)が読み上げました。長島三奈さんの喪主挨拶本日はお忙しい中、また遠方より父の長嶋茂雄の通夜にお越しいただき、心より感謝申し上げます。祭壇に飾られた父の写真をご覧ください。家族と過ごす時、父は本当に太陽のように大きく、明るく、暖かい笑顔で毎日私たちに光を与えてくれました。よく、仕事場に行くと「監督は試合で負けると機嫌が悪いのか」と聞かれましたが、私は父が機嫌を損ねたり、物に当たる姿を一度も見たことがありません。 もちろん、選手の中には「試合中、ベンチで何度も蹴られたことがある」と思う方もいるかもしれません。ですが、父はグラウンドで真剣さゆえに雷のように激しさを見せていたのが事実です。それでも家族に戻ると穏やかで、長嶋家には常に青空が広がっていました。6月3日の朝6時39分、父は長い眠りへとつきました。そのわずか7時間後に駆けつけてくださったのが王貞治会長です。会長、本当にありがとうございました。父は、王会長が巨人に入団した日のことを60年以上経った今でも鮮明に覚えています。上野駅で初めて出会った際、父は「なんて大きな身体で、クリクリとした大きな目をしているんだろう」と驚いておりました。王会長の話をする時、父はいつも笑顔でした。一度、「王さんとパパはライバルだったの?」と尋ねたことがあります。すると父は、「違うよ、三奈ちゃん。王さんと僕は巨人を強くするために一緒に頑張ってきたんだ」と明るく語ってくれました。お互いに補い合い、巨人を支えていたのです。 不思議ですが、父が王会長の話をするときは、本当に笑顔で目には涙が浮かんでいました。そんな話を共有できるのは、父にとって王会長だけでした。最後まで父を支えてくださり、本当にありがとうございました。そして6月4日の朝早くには、ニューヨークから松井秀喜さんが駆けつけてくださいました。松井さん、本当にありがとうございました。ご存知のとおり、父が世界で最も大切にしていた方でした。もし、松井さんと私が同時に海で溺れていたとしたら、きっと真っ先に松井さんを助けたことでしょう。松井さんがヤンキースに入団した最初の年、父は居ても立ってもいられずニューヨークに駆けつけました。その時の逸話を聞くたびに、顔がほころびます。父は松井さんと共に歩んできた数々の思い出を大切にしておりました。 実は、松井さんと私にはある約束がありました。それは、父が松井さんが次の巨人監督になるという希望を抱かせ続けることで、父のリハビリに対するモチベーションを高めることでした。「『監督やるやる詐欺』しましょう」と松井さんと話していたのです。父もきっと聞いているかもしれません。父は耳が良く、記憶力も優れていましたが、選手の名前だけはよく混同していました。それでも、父の話にはみんなが顔をほころばせ、笑顔が溢れる方でした。そんな父を娘として誇りに思います。皆さん、どうかこれからも父のことを笑顔で語り、思い出していただければ幸いです。そして、本日は読売新聞グループ本社様のお力添えで、温かい通夜を行うことができました。心より御礼申し上げます。 最後に、父の祭壇をオレンジの花で彩っていただいたことに特別な感謝を申し上げます。オレンジは父の愛するジャイアンツカラーで、とても素晴らしい明るい祭壇となりました。巨人軍が提供してくださった父の背番号3のユニフォーム、天覧試合でホームランを放った時のバット、松井秀喜さんと共に授与された国民栄誉賞の金のバット、そして天皇陛下から授与された勲記と文化勲章が誇り高く飾られています。もしお時間があれば、ぜひ記念写真を撮っていただき、父を笑顔で送り出していただければと思います。本日は本当にありがとうございました。

【阪神】岡田彰布オーナー付顧問が曽谷龍平を大絶賛「宮城と同レベルだ。彼の高校は?ああ、明桜なんだね」

阪神の岡田彰布オーナー付顧問(67)は、ABCラジオの「フレッシュアップベースボール」で解説を務めました。 オリックスの先発投手、曽谷龍平(24)は初回から安定したピッチングを見せ、3年目の左腕に対して岡田氏は大絶賛しました。 「昨日の宮城投手と遜色ないですね。本当にいいピッチングをしています。彼は何年目ですか? 3年目ぐらいですよね。伊原投手と同い年なんですよね。お互いに知っているのでしょう。曽谷選手はどこの高校出身なんですか? 明桜なんですね。」と述べ、普段から高い評価をしている様子がわかりました。 阪神の監督として、岡田氏は2年連続でオリックスと対戦しました。曽谷選手が新人だった23年には4回途中で攻略しましたが、昨年の対戦では6回を無得点に抑えられ、12三振を喫して勝利を逃しています。

【ルヴァン杯】磐田-湘南 広島-福岡 横浜FC-C大阪 東京V-柏/プレーオフ速報中

JリーグYBCルヴァン杯プレーオフ第2戦4試合を速報中。 【ルヴァン杯】日程&結果 磐 田00-0 - 0湘 南 ▼得点者 広 島  -  -  福 岡 ▼得点者 横浜FC  -  -  C大阪 ▼得点者 柏  -  -  東京V ▼得点者 【イラスト】ルヴァン杯1次ラウンド勝ち上がり