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【競輪】引退を表明した平原康多、選手手帳を返納し「サプライズ続きで涙が止まらなかった」

42歳の元競輪選手、平原康多(埼玉籍)が23日、日本競輪選手会埼玉支部において選手手帳を返納しました。「朝から自分の引退報道を新聞やネットで確認しており、その瞬間に引退が現実のものと感じられました。特に武田豊樹さんのコメントが胸に響き、思わず涙が出てしまいました」。手続きを終えた後、弟の啓多や埼玉の仲間たちから花束が贈られ、感激のあまり涙を流す場面もありました。「人の思いというものは本当に胸に刺さりますね。様々なサプライズに感動し、涙が止まりませんでした」と、仲間たちからの心からの温かさが胸に響いた様子を語りました。

【競輪】武田豊樹、平原康多から引退報告を受け「その夜は眠れなかった」/手記

競輪界で長年“関東の総大将”として活躍してきた平原康多選手(42歳・埼玉)が、22日に電撃的な引退を発表しました。S級S班としてトップに位置する中での異例の決断に、かつて黄金コンビとして連携を組んだ武田豊樹選手(51歳・茨城)、同郷の後輩・宿口陽一選手(41歳・埼玉)、そして妻の久美さんがそれぞれの思いを語りました。武田選手は20日に引退の報告を受けたそうです。   ◇   ◇   ◇   20日に康多から連絡をもらい、引退を報告されました。それからというもの、その夜は眠れずに過ごしました。3月のG3玉野でのレースを見て、少しモチベーションが切れているのかなとは感じていましたが、まさか引退するとは考えてもみませんでした。彼の決断がいかに重いものであるかを理解していたので、引き留めることはできませんでした。それが、彼がやり切ったという証なのだと思います。年齢を重ねる中で、競輪の世界でトップを維持することの困難さは、康多本人にしか分からなかったでしょう。最近は怪我も多かったですし、僕自身も同じような時期があったので、その辛さは共感できます。彼が苦しみながらも頑張る姿は、自分にとっても励みになっていました。神山選手の引退に続き、寂しさがあります。今年5月の宇都宮G3、そして地元の取手G3で、康多と一緒に走る予定でした。取手で彼と連携できるかもしれないと淡い期待を抱いていました。しかし、その期待は叶わず、もう一緒に走ることはできないという心残りがあります。電話では明るく振る舞っていた康多ですが、年下の彼が先に引退するとは、特別な感情が湧き上がります。彼と共に走った時代は素晴らしく、競輪の魅力を教えてくれたことに感謝しています。現在の心情としては、彼がこの決断を下せたことを喜ばしく思っています。私自身、いつ引退してもいい覚悟ができており、今は1レースずつ集中して走っています。脚力は衰えていても、まだ心で戦える自信があります。しかし競輪人生はもう長くはないでしょう。康多の引退後は、今度は私が彼にアドバイスをもらいながら、残りの競輪人生を悔いなく過ごせるよう彼のサポートを受けたいです。康多、お疲れさまでした。

【競輪】“関東の総大将”平原康多が電撃引退 現役SS班のまま23年間の現役生活に終止符

長年にわたって競輪界の“関東の総大将”として活躍してきた平原康多(42)が電撃的に引退することが22日、発表されました。23日には日本競輪選手会の埼玉支部に選手手帳を返納し、異例のSS班のままでの引退を決断しました。これは過去に例がなく、大けがの繰り返しにもかかわらず、昨年のG1日本選手権(いわき平)で「ダービー王」に輝きましたが、1年後の同じ大会(名古屋)で限界を感じたようです。関東の後輩たちの成長を見届け、約23年にわたる現役生活に幕を下ろします。    ◇    ◇    ◇競輪界において、神山雄一郎や武田豊樹から受け継いだエースの座を平原は重責として一身に背負ってきました。ですが、2度の大けがが引退の要因となりました。23年4月のG3武雄記念で肩甲骨を骨折し、さらに復帰した6月のG1高松宮記念杯では左股関節をひどく負傷しました。その後はヘルニアや坐骨神経痛に悩まされ、自宅の階段を上がるのも辛いほどの慢性的な腰痛に苦しみました。そうした中、昨年5月にはいわき平のG1日本選手権で念願の初優勝を果たしました。「絶好調でも勝てないのに、こんな調子で勝てるとは。競輪は面白いですね」と感慨に浸りましたが、体調は回復せず、落車も続きました。今年4月の日本選手権では、ディフェンディングチャンピオンとして安定した走りを見せ、初日特選での2着で準決勝行きを決めましたが、そこで自分の限界を感じたといいます。「真杉匠選手に遅れてしまい、自転車が思うように進まないと感じました。もう限界だなと思いました」。黄金期には自身の自力型時代を、「空中からレースを操っているような感覚」だったと振り返ります。武田豊樹との「関東ゴールデンコンビ」の強力な連携は、互いにビッグレース勝利をもたらしました。「武田さんの優勝は自分のことのように嬉しかった」と話すほど、強固な絆で結ばれていました。23年の西武園オールスターでは、吉田拓矢の後ろから真杉匠が初タイトルを手に入れ、その場面に平原も貢献しました。昨年は自身が吉田の後ろからダービーを制し、今年のダービーでは、真杉の後ろから吉田が勝つシーンを見届けました。「彼らに関東を任せられると思うと安心です」と話す平原。彼が一人で抱えてきた大きな荷物をようやく降ろすことができました。◆平原康多(ひらはら・こうた)1982年(昭和57年)6月11日、埼玉県狭山市生まれ。42歳。県立川越工業高校卒業。競輪学校(現養成所)87期生として02年8月に西武園でデビューし、G1では09年びわこ高松宮記念杯から昨年のいわき平日本選手権(ダービー)まで計9勝を挙げました。G2は06年ふるさとダービー富山、18年高知共同通信社杯の2勝。通算1614戦511勝、優勝61回。22日現在の通算獲得賞金は17億1407万2900円。185センチ、95キロ、血液型A型。父は康広(28期、引退)、弟は啓多(97期)。

【競輪】電撃的に引退を発表した平原康多「もう“平原康多”という商品をお見せするのは無理だと」/一問一答

競輪で長年にわたって“関東の総大将”として第一線を走り続けてきた平原康多(42歳)が、21日に突然引退を表明しました。22日に日本競輪選手会の埼玉支部に選手手帳を返納し、現役S級S班の引退はこれまでに例がありません。彼は度重なる大きな怪我と戦いながら、昨年のG1日本選手権(いわき平)で「ダービー王」となりましたが、その1年後、同じ日本選手権(名古屋)で限界を感じました。関東の若い選手たちの成長を見届けた上で、SS班のまま、約23年間の現役生活に終止符を打つという異例の決断を下しました。    ◇    ◇    ◇  以下は一問一答の内容です。-衝撃的な引退発表ですが、決断の場面は?平原 ダービーの初日に、真杉について行こうとしたときに、どんなに踏んでも進まないと実感しました。これが限界だと思いました。考え得るケアや治療は試みてみましたが、“平原康多”という商品としての期待に応えるのはもう難しいと思いました。-ご家族にはすぐに伝えられましたか?平原 はい。妻は『それはあなたが決めることだから』と言ってくれました。翌日、父(康広=28期)に伝え、その際、父も心配してくれていて、何も厳しいことは言われませんでした。親なんだと実感しました。父も今の僕と同じくらいの年齢で首に大怪我をして、それが引退の原因になったことがずっと気になっていました。-オールスターでグランドスラムがかかっていたことについては?平原 自分自身にはそのこだわりはありませんでしたが、ファンの皆さんの期待があって、そこまでは頑張ろうと思っていました。でも、自分の体は自分が一番分かっているので、このタイミングでの決断になりました。-次のプランは?平原 今はまだ何も決まっていませんが、競輪が大好きなので、競輪に携わっていきたいですし、競輪を広めるお手伝いができればと思っています。-ファンの方々へ最後にメッセージを平原 今まで温かいご声援をありがとうございました。普通では味わえない多くの経験をさせていただきました。特に最後の2年間は、ファンの皆さんの励ましがなければ続けられなかったと思います。また必ずどこかでお会いしましょう。

【競輪】「安心して過ごせることが嬉しい」引退する平原康多への久美夫人の思い/手記

競輪界で長年“関東の総大将”として活躍してきた平原康多(42歳・埼玉)が、22日に電撃的に引退することが明らかになりました。彼は現在、競輪界トップであるS級S班に所属しており、非常に珍しい決断を下しました。この報に接した彼の苦楽を共にしてきた仲間たち、特に黄金コンビであった武田豊樹(51歳・茨城)や同県の後輩・宿口陽一(41歳・埼玉)、そして妻の久美夫人が、それぞれの思いを語っています。   ◇   ◇   ◇   パパ、これまで本当にお疲れさまでした。家では、練習や昼寝、そしてゲームに夢中の姿ばかりでしたね(笑)。それでも、子供たちと一緒にテレビで応援している時間はとても楽しくて、かっこいい自慢のパパでした。これからは普通のおじさんとして、これまで我慢していた趣味を存分に楽しんでくださいね。けがが多かったこの2年間は、身体的な痛みだけでなく、精神的にもかなり辛そうでした。それでもどんな状況でも練習とケアを続ける姿を見て、家族はただ見守るしかできませんでした。少し前から引退を考えていると聞いていたので、今回の決断に驚きはありませんでした。彼は、一度決めたことは最後までやり遂げる性格なので、はっきり「辞める」と言ったときは、心から納得して決めたことだと受け入れました。そんな瞬間的な決断も彼らしいと思います。少し寂しさもありますが、けがの心配をせずに済むという安心感の方が大きいです。これまで一緒に練習を頑張ってきた仲間や応援してくださったファンの方々のおかげで、主人は努力を続けることができました。彼に関わっていただいた皆さまには、家族として心から感謝しています。これまで本当にありがとうございました。

【競輪】平原康多が電撃引退へ…度重なる大けがと闘い「もう限界だなと」SS班のまま異例の決断

G1を9勝し、KEIRINグランプリには14度出場。長年にわたり“関東の総大将”として第一線を突き進んできた平原康多(42=埼玉)が、23日に電撃引退することが日刊スポーツの取材で分かった。現役S級S班のままの引退は過去に例がない。神山雄一郎、武田豊樹から引き継いだエースの座。平原はその重責を一身に背負ってきた。しかし、この数年は、肩甲骨の骨折や股関節の大けがなど度重なる負傷と闘いだった。慢性的な足のしびれや、階段を上がるのもきついほどの腰痛に悩まされながらも、昨年5月のG1日本選手権(いわき平)で「ダービー王」の称号を手に入れた。しかし、体調が回復することはなく、それから1年後の同じ日本選手権(名古屋)で限界を実感した。「ダービー初日、真杉(匠)に離れて追っていく時に、踏んでも踏んでも進まなかった。これはもう限界だなと。考えられるケアや治療は全て試したけど、体に打ち勝てなかった。グランドスラムを期待するファンの声もあったので、オールスターまでは頑張ろうという気持ちもあった。でも、もう期待される“平原康多”という商品をお見せするのは無理だと思いました」。その日本選手権では、吉田拓矢と真杉がワンツー決着。関東の後輩たちの成長も見届けた上で、SS班のまま、約23年間の現役生活に終止符を打つという異例の決断を下した。今後の予定はまだ白紙の状態。23日、日本競輪選手会の埼玉支部に選手手帳を返納する。◆平原康多(ひらはら・こうた)1982年(昭57)6月11日、埼玉県狭山市生まれ。42歳。県立川越工高卒。競輪学校(現養成所)87期生として02年8月に西武園でデビュー(<1><2><9>)。G1は初Vとなった09年びわこ高松宮記念杯から、昨年いわき平日本選手権(ダービー)まで計9勝。G2は06年ふるさとダービー富山、18年高知共同通信社杯の2勝。通算1614戦511勝、優勝61回。通算獲得賞金は17億1407万2900円(22日現在)。185センチ、95キロ。血液型A。父は康広(28期、引退)、弟は啓多(97期)。

【ボートレース】5Rで4艇が転覆! 3連勝式は不成立で2937万800円が返還/芦屋

5Rで4艇が転覆するアクシデントが発生した。先頭を走る丸岡正典とバックで並走していた石井伸長が、2Mを回った直後に岸本隆(不良航法)と接触して2艇が転覆。後続の池永太、大広咲季も避け切れずに次々と乗り上げた。丸岡と、難を逃れた三川昂暁の2人が完走したが、3連勝式は不成立となり発売額の約96・8%にあたる2937万800円が返還となった。