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松井秀喜氏「長嶋監督と素振りで会話したこと、1番の幸運」 最後に会ったのは1月/一問一答

元巨人でヤンキースGM付特別アドバイザーの松井秀喜氏(50)が米国から緊急帰国し、3日に肺炎のために亡くなった長嶋茂雄終身名誉監督と対面した。空港から直行し、4日午前4時57分、都内の恩師の自宅を訪れた。紺色のスーツに黒のネクタイ姿で訪れた松井氏を、次女の長島三奈さんが「おはようございます、松井さん」と出迎えた。午前7時10分すぎに弔問を終えて、報道陣の取材に応じた。一問一答は以下の通り。-長嶋さんは松井さんにとってどのような存在ですかひと言でこういう存在でしたと表すのはちょっと難しいかなと思います。長嶋さんは1人なんですけど、私からしたらたくさんの顔を持つ方だった。ひと言でいうのは難しいですね。それぐらいいろいろな意味で、たくさんのものを与えてくださって。そういう意味で、たくさんの顔を持つ、顔を持つというのはおかしいですかね、そういう存在でしたね。-たくさんの時間を過ごされたと思うのですが、一番の思い出はどのようなことでしょうか。一番は難しいですね。ほんとにいろんな、長嶋さん、いろんな監督、監督、選手として、また監督をお辞めになった後も、私はまだ選手を続けてた時のその関係性もありますし、また私が引退した後の関係性もありますし。その時その時で、いろんな関係性はあったと思います。なんか難しいですね、言葉にするのは。-普段の松井さんでしたら、素振りをされていた時間が一番念頭にあったかと思いますが、今日はどんな感情がありましたか。 そうですね、いろんな時間を過ごして、本当に私は幸せもので。長嶋監督といろんな時間を共有させてもらいましたし。その時その時の思い出っていうのはありますけど、やっぱり素振りで、素振りで会話したというか、素振りを通じて、野球選手としての大事な部分を授けてくださった。いち松井秀喜という野球選手に最も大切なことを授けてくださいましたし、そのことが私の中では1番幸運でもあり、また1番感謝してることでもあります。-おふたりで話されたということでしたけども、これから、どのような形で長嶋さんの意思を受け継いでいきたいなと考えてますか。私にね、たくさんのことを授けてくださいました。今後ね、どういう形で、また次の世代に継承していくかっていうことははっきりとした形を見えませんけどね。長嶋さんと生前約束したこともあります。ここでは、今はお話しできませんが。その約束を果たしたいと思ってます。-直近でお会いされたのはいつですか。1月ですね。1月の上旬にちょっと帰国する機会がありまして、その時にお会いしたのが最後ですかね。-最初に聞かれた時っていうのはどのようなお気持ちでしたか。いや、もうショックというか。ショックでしたね、やっぱり。【動画】松井秀喜さんが故長嶋茂雄さん弔問 約2時間無言の対面>>長嶋茂雄さん死去89歳 数々の伝説残したミスタープロ野球/まとめ>>

松井秀喜氏、長嶋茂雄さんとの「生前での約束」を明かす 緊急帰国後の静かな対面

元巨人軍の選手であり、現役でヤンキースの特別アドバイザーを務める松井秀喜氏(50)が、3日に亡くなった長嶋茂雄名誉監督とのお別れを果たしました。 訃報を受け、松井氏は米ニューヨークから約14時間のフライトで緊急帰国し、都内の長嶋氏の自宅を4日早朝に訪れ、故人と最後の対面をしました。名誉監督は肺炎でお亡くなりになられました。長嶋氏の次女である三奈さんの計らいで、松井氏は長嶋氏と二人きりで思い出を静かに振り返りました。 松井氏と長嶋氏の師弟関係は、1992年のドラフトから始まりました。巨人監督に就任が決まっていた長嶋氏がドラフト抽選を引き当て、松井氏は巨人に入団。長嶋氏の直接指導による「1000日計画」が始まり、素振りを通じて野球の大切さを学びました。そして、約2時間にわたる弔問を終えた松井氏は、「素振りを通じて多くのことを教えていただいたことは、私の人生の中で最も大きな幸運であり、感謝しています」と報道陣に語りました。 今後について尋ねられると、松井氏は「具体的にどのように次世代に継承するかはまだわかりませんが、長嶋さんと生前に約束したことがあります」とコメントしました。「詳細についてはここではお話しできませんが、その約束を果たすためにこれからも師弟関係は続いていく」とも話しています。

高橋由伸氏、妻の小野寺麻衣さんと故長嶋茂雄さんの自宅を弔問「笑みを浮かべているように見えました」

元巨人監督の高橋由伸氏(50)は、3日に逝去した長嶋茂雄さんの自宅を4日に訪れ、妻で元日本テレビアナウンサーの小野寺麻衣さん(49)と共に弔問しました。長嶋さんとの対面で高橋氏は、「関係者の方や三奈さん、中畑さんと共に色々な昔話や談笑をした中で、長嶋さんは今にも笑い出しそうな表情を浮かべているように思えました。我々の話を聞きながら、笑顔を見せ、本当に今でも笑い出しそうな感じでした」と話しました。高橋氏は思い出について、「長嶋監督がいたからこそ、ジャイアンツに入団できたと思います。監督は私を導いてくれた方であり、感謝の気持ちでいっぱいです。監督になってからは、2人で話す機会が増え、厳しく叱られたこともありますが、本当に支えてもらいました」と感謝の気持ちを述べました。また、同日早朝には元巨人でヤンキースGM付特別アドバイザーの松井秀喜氏(50)も弔問に訪れ、2時間以上滞在しました。「次女の三奈さんが『2人でじっくり話してください』と言ってくださり、2人きりで思い出を語り合いました」と語りました。元巨人の中畑清氏(71)も弔問に訪れました。

【巨人】坂本勇人、打席で感じた長嶋茂雄との特別な瞬間

読売ジャイアンツの終身名誉監督である長嶋茂雄さんは、3日の午前6時39分に都内の病院で肺炎のため亡くなりました。89歳でした。   ◇   ◇   ◇    日本プロ野球界には「長嶋茂雄伝説」として数多くの逸話があります。その影響を実感した1人が、坂本勇人内野手(36)です。坂本選手が長嶋さんと初めて直接会話を交わしたのは彼のプロ2年目の春季キャンプ。「君の将来を期待している」と声をかけられたこと、その時に体をそっと触られた際の「オーラがすごかった」という感動を今も覚えています。ある試合で、打席に立った坂本選手は、背中に熱を感じ、体から力が湧き出るような体験をしました。本塁打を放ち、ダイヤモンドを一周した際、バックネット裏から笑顔で声援を送る長嶋さんの姿が見えたのです。試合後に関係者から、長嶋さんが力強く机を叩きながら声援を送り、坂本選手に力を送っていたと聞かされると、彼は鳥肌が立ったと言います。「長嶋さんが与えてくれた力は本当に不思議です。球場に来られている日は、特に打てるように感じます」と坂本選手は語ります。思い返せば、2008年の初ホームランも、長嶋さんの偉業を称える「永久欠番シリーズ」の最終日で、ベンチに飾られた長嶋さんのユニホームを前に、球団初の10代での満塁ホームランを達成しました。球団創設80周年の記念行事の一環として行われた14年7月4日の中日戦では、金田正一さんが始球式を務め、長嶋さんが打席に立つ中での彼の活躍が注目されました。昨年の5月3日、阪神戦での球団創設90周年特別試合「長嶋茂雄DAY」では3安打を記録し、186度目の猛打賞で長嶋さんに肩を並べることができました。「長嶋さんのセレモニーの日にそんな成績を出せたことは本当に光栄ですし、素直に嬉しく思います」と坂本選手は、まるで運命に導かれているようだと振り返ります。【久保賢吾】

長嶋茂雄氏「書くのが仕事でしょ」心に響いた言葉

プロ野球の巨人軍で監督を2期15年間にわたり務めた長嶋茂雄さんが、肺炎により3日午前6時39分に都内の病院で亡くなりました。享年89歳でした。   ◇   ◇   ◇巨人軍のキャップ担当時代、長嶋監督の進退についての記事を書きました。96年にメークドラマの勝利を収めたものの、97年にはBクラスに沈み、98年の契約最終年も不調が続きました。国民的ヒーローである長嶋監督について書くことには大きなプレッシャーがありました。その夏は息苦しいものでした。ある日の7月31日、阪神戦でガルベス選手の不始末があり、彼は出場停止となりました。監督は丸刈りになって謝罪しましたが、チームの不調は続きました。そして1カ月後、「長嶋監督辞意」という記事を1面に掲載しました。その日の朝、自宅近くでランニング中の監督に出会いました。心臓が張り裂けそうでしたが、驚いたことに監督は笑顔を浮かべていました。「新聞買いましたよ、えっへっへ。家でじっくり読みますよ」。彼の澄んだ瞳が今でも忘れられません。その頃、読売新聞社はすでに次期監督候補との交渉を終えていました。しかし、長嶋監督はそのプロセスから外されたことに怒りを覚え、最終的には辞任を撤回しました。世論も疑念を抱き、渡辺オーナーは事態の収束を図り監督続投を決定しました。 結果的に誤報となり、どう責任を取るべきか悩んだ末、監督に時間をいただきました。険しい表情の彼に「こちらへおいで」と呼ばれ、ヤクルト戦の試合前、神宮球場の三塁ベース付近で会いました。「私は野球については何を書かれても構わない。野球以外のことやプライベートなら怒るけどね。だから(辞任の)記事はもう過ぎた話です。なんのわだかまりもないですよ。だって田さんだって書くのが仕事でしょ」。私の目に涙が浮かびそうになりました。記者としてよりも、人として救われた気持ちになりました。その時、三塁側内野席から巨人ファンが声をかけてきました。「ナガシマさ~ん!」。監督は右腕を上げ、歓声に応えました。彼がかつてサードポジションからスタンドを見るのが好きだと聞いたことがあります。そして私も見上げてみました。この光景が…。ファンからも、野球そのものからも、愛され続けてきた「長嶋茂雄」がそこにいました。【97、98年巨人キャップ=田誠】

大谷翔平、出るか2試合連続ホームラン24号「1番DH」でメッツ戦 5月の月間MVPに選出/速報します

ドジャースの大谷翔平選手は「1番DH」で先発出場を果たしました。前日には日本の野球界のレジェンド、長嶋茂雄終身名誉監督が逝去し、大谷選手は自身のインスタグラムでその死を悼む投稿をしました。試合では追悼の意を込めて23号のソロホームランを放ち、2試合連続ホームランとなる24号に期待が高まっています。 さらに、この日、大谷選手はナショナル・リーグ野手部門で5月の月間最優秀選手(MVP)に選ばれました。昨年9月以来の受賞で、5月としては初の快挙となりました。エンゼルス在籍時を含め通算6度目の受賞となり、自身が持つ日本人選手最多受賞記録を更新しました。 ドジャースは、左足つま先を骨折していたベッツ選手が2番ショートで復帰しました。 チーム123456789計 メッツ 0 ドジャース 0 大谷翔平第1打席 ドジャース大谷翔平(25年4月撮影)

【阪神】掛布雅之氏「1年だけでも同じグラウンドに立てた経験は一生の宝物」長嶋茂雄さん悼む

プロ野球の巨人の監督を2期15年にわたって務めた巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分、肺炎のため、都内の病院で亡くなった。89歳だった。   ◇   ◇   ◇阪神掛布雅之OB会長 同じ千葉出身で少年時代からの憧れ、野球にのめりこむきっかけとなった人でした。ルーキーイヤーと長嶋さんの現役最終年がかぶり、1年だけでも同じグラウンドに立てた経験は一生の宝物となりました。不振で悩んでいる時に自宅に電話をかけてきてくれて「今、バットを振ってみなさい」と指導を受けたことも思い出です。日本球界の太陽のような存在でした。突然の訃報に驚き、大きな脱力感に襲われています。長嶋茂雄さん死去89歳 数々の伝説残したミスタープロ野球/まとめ>>

松井秀喜氏 緊急帰国して長嶋茂雄さんと2時間超無言の対面 目潤ませ「2人きりで思い出を…」

元巨人でヤンキースGM付特別アドバイザーの松井秀喜氏(50)が米国から緊急帰国し、3日に肺炎のために亡くなった長嶋茂雄終身名誉監督と対面した。空港から直行し、4日午前4時57分、都内の恩師の自宅を訪れた。紺色のスーツに黒のネクタイ姿で訪れた松井氏を、次女の長島三奈さんが「おはようございます、松井さん」と出迎えた。午前7時10分すぎに弔問を終えて、報道陣の取材に応じた。2時間を超える無言の対面となったが「2人きりでずっといろいろな思い出を呼びおこしていました。今にも目を開けそうな…意志のあるという風に見えました」。さらに「一番は感謝です。監督との出会い、縁がなければ松井秀喜の野球人生は全く違った野球人生だったと思う」と、目を潤ませながら語った。松井氏は92年のドラフトで4球団が1位指名で競合。93年から巨人監督に就任することになっていた長嶋さんが、クジを引き当てた。師弟関係が始まると、入団からの1000日計画として、旧ジャイアンツ寮の一室でマンツーマンで直接指導し、素振りを繰り返した日々は伝説だ。ボロボロになった畳は“松井畳”として受け継がれ、後輩たちに多くの教えを授けてきた。松井氏も12年の引退会見で、選手生活で一番印象に残っていることを「長嶋監督と2人で素振りした時間」と答えていた。「これだけ年が離れた選手の中で、長嶋茂雄を一番理解してるのは自分だと自負しているし、それをつないでいくのも自分かな。次の世代につなぐのが使命」。長嶋イズム継承への思いをそう語ったこともある。松井氏は、長嶋さんが01年限りで監督を勇退して終身名誉監督となった後、02年オフにFA権を行使し、MLBへの挑戦を表明した。ヤンキースに移籍後、長嶋さんがニューヨークに観戦に訪れた際にも、マンハッタンのホテルで2人で素振りをする時間があったという。13年には2人同時に国民栄誉賞を受賞。21年の東京五輪では王貞治氏(85)も加え、3人で開会式の聖火ランナーを担った。松井氏は昨年5月3日の「長嶋茂雄DAY」と銘打たれた東京ドームでの阪神戦ではセレモニアルピッチを務め「プロ野球の歴史を振り返っても、必ず長嶋茂雄という名前は一番。私の中でも一番、大きな存在。今年はジャイアンツが90周年ですが、100年たっても、150年、200年たっても、長嶋茂雄という名前は語り継がれると思います」と語っていた。長嶋茂雄さん死去89歳 数々の伝説残したミスタープロ野球/まとめ2>>

** 松井秀喜氏「今にも目を開けそうなくらい意思のある感じでした」恩師長嶋茂雄さん弔問/一問一答 **

** 元巨人で現ヤンキースGM特別アドバイザーの松井秀喜氏(50)は米国から急遽帰国し、3日に肺炎で逝去された長嶋茂雄終身名誉監督と対面しました。空港から直行して、4日午前4時57分、都内にある恩師の自宅を訪れました。 深紺のスーツに黒のネクタイ姿で訪れた松井氏を、次女の長島三奈さんが「おはようございます、松井さん」と迎え入れました。 午前7時10分過ぎに弔問を終えた松井氏は、集まった報道陣の取材に応じました。 以下は一問一答の内容です。 -長嶋さんとの対面はどのような時間でしたか? 三奈さんから「2人きりでお話ししてくださいね」と言っていただき、2人きりでいろいろな思い出を振り返りました。 -長嶋さんのご様子は? まるで今にも目を開けそうなほど、意思のある感じでした。 -どのような言葉をかけましたか? 本当にたくさんありすぎて、説明するのは難しいですが、やはり一番は感謝です。監督との出会いがなければ、松井秀喜という野球選手は全く違った野球人生を送ったことでしょう。監督にドラフトで選んでいただいたことに始まり、その後の2人の時間、そして私に授けて頂いたすべてに対し、「ありがとうございました」とお伝えしました。素振りを通じて対話したようなもので、野球選手として最も大事な部分を教えてくださったのです。松井秀喜という野球選手に、最も大切なことを授けてくださったので、非常に幸運で、心から感謝しています。

【訃報】長嶋茂雄さんが89歳で死去 ミスタープロ野球が残した数々の伝説

プロ野球の巨人軍で2期15年にわたって監督を務めた巨人軍終身名誉監督、長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分に肺炎のため都内の病院で亡くなりました。享年89歳でした。 記録・伝説・語録 球界悼む 各界悼む メディア、SNSなどの反応 担当記者悼む 長嶋茂雄氏の年度別成績 長嶋茂雄氏の年度別監督成績 ◆長嶋茂雄(ながしま・しげお)1936年(昭和11年)2月20日、千葉県印旛郡臼井町(現佐倉市)生まれ。佐倉一高(現佐倉高)から立教大学に進学し、杉浦、本屋敷と共に黄金時代を築き、首位打者2回を誇り、東京6大学の新記録となる通算8本塁打を放ちました。 巨人入団1年目の1958年に打率3割5厘、29本塁打、92打点で本塁打王、打点王に輝き、新人王を受賞しました。1959年6月25日の天覧試合(対阪神)では同点本塁打とサヨナラ本塁打を記録し、王貞治との「ON砲」で1965年からの巨人V9を支えました。1974年に現役引退するまでMVP5回、首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回を獲得し、「ミスター・ジャイアンツ」として球界最大のスーパースターとなりました。 巨人監督に就任した1975年は球団初の最下位を経験しましたが、監督としては1975~1980年、1993~2001年の計15年間務め、リーグ優勝5回(1976年、1977年、1994年、1996年、2000年)、日本一2回(1994年、2000年)を達成しました。アテネオリンピック日本代表監督として2003年のアジア予選は3戦全勝で五輪出場を決めましたが、2004年の本戦では病気のため采配を振るうことができませんでした。 1988年に野球殿堂入り。現役時代は身長178センチ、体重76キロ、右投げ右打ち。家族には亡き亜希子夫人(2007年9月18日、64歳で死去)との間に長男一茂さん(元プロ野球選手)、長女有希さん、次女三奈さん(フリーアナウンサー)、次男正興さんがいます。 長嶋茂雄氏(2019年9月27日撮影)