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【巨人】阿部慎之助監督「ゾクッときた。長嶋さんが打たせてくれた」東京ドームで起きた最期の奇跡

巨人の阿部慎之助監督(46)は、3日に亡くなった長嶋茂雄終身名誉監督にこの秋優勝を報告することを心に誓いました。この日、楽天に5-0で完勝しました。阿部監督は「いい報告を、優勝したいなと思いますので、とにかく僕たちは1日1日勝っていくしかありませんので」と決意を語りました。7日の楽天戦後、通夜にも参列しました。「三奈さんがご挨拶してくれて、遺影が非常に笑顔で、それがとても印象的でした。三奈さんも『ぜひ笑顔で一緒に写真を撮ってください』とおっしゃっていました。とても優しい顔をされていたと思って、感謝を述べてお別れしました」と話しました。7日に長嶋さんのご遺体を乗せた車は、午後3時13分から24分にかけて東京ドーム周辺(黄色いビル前→水道橋交差点、壱岐坂下交差点→東京ドーム前)を通り、同4時3分に斎場に到着しました。その直後、増田陸、丸が2者連続で本塁打を放ちました。阿部監督は「そのような話も、ゾクッときましたけど。打ったのは本人たちですが、長嶋さんが打たせてくれたというのもあると思います」と噛みしめながら語りました。

大谷翔平、予期せぬハプニング!左足首付近にスイーパーが直撃、それでもプレーを続行

ロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平投手(30歳)は、試合中に思わぬアクシデントに遭遇しました。 試合は7対3で迎えた8回の2アウト1、2塁の場面。カウント1-2から、右腕スバンソン選手の投げたスイーパーが大谷選手の左足首付近に直撃しました。衝撃を受けた瞬間、大谷選手は思わず声を漏らしながらも、足を引きずりつつプレーを続ける姿を見せました。 同日の試合では、初打席で二塁打を放ち、これで5試合連続のヒットを記録しています。

【巨人】天が味方したかの如く…戸郷翔征が体験した不思議、ミスターへの勝利を「示せた」

読売ジャイアンツの戸郷翔征投手(25歳)が今季最高のピッチングを見せつけた。先発として今季最長の7回を投げ、119球3安打無失点という好成績を残した。さらに、この日は長嶋茂雄さんの告別式が行われた特別な日。「体調が悪い中、何度も球場に足を運んで、僕たちに応援を送ってくださった。そのような方が亡くなり、とても悲しいですが、勝つことが一番の喜びだと思うので、それをミスターに示せて良かった」と語った。 特別な体験があった。3日前、彼は自宅で過去の投球映像を見返していた。「寝る前に去年投げたフォークを思い出した」。その感覚はまるで天が与えてくれたかのようで、「それが試合で活かされてよかったです」と微笑んだ。 ようやく本来の調子が戻ってきた。今季は開幕から6試合連続で勝ち星がなく、2軍降格も経験。しかし、昨季まで3年連続で12勝を挙げた右腕が、良い時の感覚を取り戻せば無敵状態に入る。この日も、150キロを超える速球とフォークを低めに集めるピッチングを見せ「今年の中で一番の出来でした」と手応えを感じていた。 それでもまだ2勝目に過ぎない。戸郷は「交流戦は非常に重要ですし、まだまだジャイアンツの実力はこんなものではない」と語り、自らの更なる活躍を誓った。【水谷京裕】

中畑清氏「あなたは私の人生全て」長嶋さん告別式での弔辞で「夢の時間」伊東キャンプの思い出も明かす

89歳で逝去された読売ジャイアンツ終身名誉監督の長嶋茂雄氏の通夜が7日に、告別式が8日に東京の桐ケ谷斎場で行われました。喪主は次女の三奈さん(57)、葬儀委員長は読売新聞グループ本社代表取締役社長であり読売ジャイアンツ取締役オーナーの山口寿一氏(68)が務めました。通夜の弔辞では堀内恒夫氏(77)と原辰徳氏(66)、告別式では王貞治氏(85)、中畑清氏(71)、松井秀喜氏(50)が読み上げました。    ◇   ◇   ◇ 元ジャイアンツの中畑清氏(71)は、告別式での弔辞にて恩師である長嶋さんに向けた言葉を語り掛けました。感謝の気持ちを最初に伝えた後、「あなたは私の人生全てです」と述べ、多くの思い出の中から、特に印象深い伊東キャンプでの2人による特訓について語りました。 捕るのが難しい位置に打たれ、長嶋さんから「下手くそ」と叱咤されましたが、ボールを捕った後には長嶋さんに向かって投げ返しました。「『ヒョー、ヒョー』と叫びながら、踊るような監督との対決を忘れることができません。それはまさに夢の時間でした」とその記憶を振り返りました。 キャンプ中の過酷なランニングでは、長嶋さんも走るように篠塚氏に言わせたことを「告白」しました。長嶋さんはそれに応えて坂を全力で走り抜け、戻ってくるとその姿に「長嶋コール」が起こり、「まさにみんなが長嶋ファミリーになった瞬間でした」と回想しました。 初めて憧れの人を「ミスター」と呼んだ日のことも、今でも鮮明に脳裏に刻まれています。現役引退後、共にゴルフをし、背中越しに「ミスター」と声をかけた時、「おお、どうした、キヨシ」と満面の笑みで答えられました。「子供のように心から心臓が止まるほど感動し、嬉しかったです」と話しました。 弔辞の途中、微笑む長嶋氏の遺影を見つめながら、中畑氏は「命懸けで教えてくれたこと、育ててくれたことは宝物です」と感謝の意を述べました。「つらいけど、私たちがやるべきことは『こんなことで下を向いている場合じゃないぞ』と。胸を張って前を見て進めというメッセージをいただいたように感じます。頑張ります」と力強い言葉で締めくくりました。

【追悼の辞】長嶋茂雄さんの通夜、告別式での弔辞者 – 堀内恒夫氏、原辰徳氏、王貞治氏、中畑清氏、松井秀喜氏

伝説的な存在である長嶋茂雄さんが3日に89歳で他界され、7日に通夜、8日に告別式が都内の桐ケ谷斎場で行われました。喪主は次女の三奈さん(57歳)が務め、葬儀委員長は読売新聞グループ本社代表取締役社長で、読売巨人軍取締役オーナーの山口寿一氏(68歳)が担当しました。 通夜では、元巨人の堀内恒夫氏(77歳)と前巨人監督の原辰徳氏(66歳)が弔辞を述べました。告別式では、ソフトバンクの王貞治球団会長(85歳)、元巨人の中畑清氏(71歳)、元ヤンキースGM付特別アドバイザーの松井秀喜氏(50歳)が言葉を捧げました。    ◇   ◇   ◇ 堀内氏は、現役時代の選手だったころ、長嶋さんに結婚式のスピーチをお願いした思い出を振り返りました。「選手仲間が結婚式の仲人をするのは稀です。ですが、長嶋さんは快く引き受けてくださり、私の質問よりも長嶋さんと奥様への質問が多く、焦る場面も多かったです」と語りました。 原氏は、「4番サード長嶋」の響きに憧れ、九州で育ったことを思い出しながら、巨人に4球団競合で入団が決まった直後のエピソードを紹介。「母が『長嶋さんからよ』と興奮して電話を渡してくれたのを覚えています。その年、長嶋さんは監督を辞められたのですが、広い視野で野球を捉え、巨人を愛する姿勢に感銘を受けました」と振り返りました。 王氏は入団時のキャンプで同室だった際のエピソードを披露しました。部屋の片付けができず1週間で部屋を変えられた話から、「長嶋さんは非常に普通の方で、私を普通の人として接してくれました。大きな恩を受けた方です」と述べました。 中畑氏は、険しい「伊東キャンプ」を振り返り、苦しい練習を長嶋監督が率先して取り組んでいたと当時を懐かしみました。「息を切らして帰還する姿を見て、雲の上にいた監督が我々のところまで降りてきてくれたと感じました」と回顧しました。 松井氏は「1000日計画」で毎日長嶋さんと素振りを行っていた思い出を語り、「今後も引き続きよろしくお願いします。長嶋さんの強烈な光で、巨人の未来、日本の野球の未来を照らし続けてください」と締めくくりました。

長嶋茂雄さんが松井秀喜氏のただ1度のお願いを却下した理由「サード、やらしてくださいよ」

元読売ジャイアンツ選手であり、現ヤンキースGM付特別アドバイザーの松井秀喜氏(50)が、3日に逝去した長嶋茂雄名誉監督に、一度だけお願いをし、それを断られたエピソードを語りました。3日に亡くなった長嶋監督の告別式が8日に都内で執り行われ、松井氏は弔辞でその思い出を語りました。その中で「監督に現役時代、唯一お願いしたことがありました。それを覚えていますか?」と話し始めました。松井氏「私はセンターを守っていましたが、『監督、どうせならサードをやらせてください』とお願いしました。しかし、監督は『お前はサードじゃない。お前はやっぱりセンターだ。俺はお前をジョー・ディマジオみたいにしたいんだ』と言われました。その時はその言葉がピンと来ませんでした。」と語りました。ある日、スイングの練習で監督のご自宅を訪れた際、ジョー・ディマジオのバットと大きな写真があることに気付きました。この瞬間に、監督が本当にジョー・ディマジオを好きであり、また彼のような選手になるよう励ましてくれたことに幸せを感じました。それ以降、私はセンターを大好きになりました。しかし、当時、監督が私にジョー・ディマジオと同じユニフォームを着させ、同じ舞台でプレーすることを考えていたとは思いもしませんでした。祭壇に飾られた笑顔の遺影を見つめながら、“サードの後継者”にしなかったことにあらためて感謝の気持ちを抱きました。後にディマジオが活躍したヤンキースのユニフォームに袖を通すことになりました。「私が引退し、監督に挨拶に行った時、『監督がジョー・ディマジオと言ったから、私はヤンキースに行ったんですよ』と言ったら、この笑顔を見せてくださいました。その瞬間、大好きだったジャイアンツから離れましたが、これで良かったと心から思いました」と振り返りました。

告別式で明かされた長嶋茂雄さんの最期…看護師も「見たことない」と驚いた心臓の波形と闘志

3日に89歳で死去した巨人長嶋茂雄終身名誉監督の告別式が8日、都内の桐ケ谷斎場で執り行われた。棺(ひつぎ)を乗せた車は7日に都内の自宅を出発し、愛着のある東京ドーム周辺を通って通夜を行った同斎場に到着。喪主は次女・三奈さん(57)が務め、縁の深い王貞治氏(85)、松井秀喜氏(50)ら巨人OBが弔辞を読み上げた。戒名は遺族の希望で非公開。初めて明かされた最期の時を超え「ミスタープロ野球」は日本の太陽として輝き続ける。   ◇   ◇   ◇山なりの波形が、ずっと続いていた。6月3日午前6時過ぎ、長嶋さんは病室のベッドの上で、プロ野球界を照らし続けた天寿を全うしようとしていた。脈拍と血圧の数値は「0」になった。医学的には心肺停止状態の表示がその時を伝えながら、ただ、心臓の動きを示す波形が山を作っていた。三奈さんは看護師に聞いた。「これ、どういうことなんですか」。その答えに、父の生きざまが表れていた。「監督が心臓を動かそう、動かそう、動かそうとしている振動なんだと思います。こんなの見たことありません」。誰もが驚いた。「最後まで、俺は生きるんだ、諦めてないぞ、諦めてないよ」。死してなお、その鼓動が「燃える男」の不屈の闘志を伝えていた。5月下旬、肺炎が悪化した。血圧が下がりながら、持ち直した。先月31日に重篤な状態となったが、この時も持ちこたえた。これまでも病室では「痛い」「つらい」などひと言も発しなかった。看護師が痛みを伴う喉の吸引を申し出ると、いつも力強くうなずいた。 集中治療室には巨人マスコットのジャビットやオレンジ色の紙花が飾られていた。6月3日、三奈さんの誕生日の午前6時39分、新たな日が昇る最中、「球界の太陽」は息を引き取った。都内の自宅に戻って4日後の7日、棺を乗せた車が東京ドームへ向かった。監督として戦い続けた、愛する本拠地。午後2時から交流戦の楽天戦が行われていたドームの周囲を回った。都内の葬儀場に着いた時、5連敗中だったチームを救う増田陸、丸の連続弾が飛び出した。長嶋さんが身につけた、巨人の永久欠番「3」が揺れた東京ドーム。別れの時は、勝利こそがふさわしかった。弔い星の後、午後6時から始まった通夜では、祭壇にオレンジ色が咲いた。三奈さんが「どうしても父の大好きなジャイアンツカラーにしたくて」と熱望。自筆の「3」が入ったユニホームや、天覧試合で本塁打を打ったバットなどが飾られた明るい祭壇の中央に、ほほえむ写真が置かれた。8日の告別式では王貞治氏がその笑顔を見ながら、弔辞を読み上げた。「あなたは日本の健康優良児でした。存在そのものが、日本人の誇りでした」。通夜と告別式には、多くの巨人関係者らが参列し、別れを惜しんだ。荼毘(だび)に付されても、不滅。長嶋さん、ミスター、監督-。これからも皆の心の中で生き続ける。【まとめ】長嶋茂雄さん死去89歳 伝説残したミスタープロ野球 通夜、告別式で最後の別れ/1

松井秀喜氏「涙止まりませんでした」長嶋茂雄さんと“夢の時間”の終わりを覚悟した日 弔辞

3日に89歳で死去した巨人長嶋茂雄終身名誉監督の告別式が8日、都内の桐ケ谷斎場で執り行われた。棺(ひつぎ)を乗せた車は7日に都内の自宅を出発し、愛着のある東京ドーム周辺を通って通夜を行った同斎場に到着。喪主は次女・三奈さん(57)が務め、縁の深い王貞治氏(85)、松井秀喜氏(50)ら巨人OBが弔辞を読み上げた。戒名は遺族の希望で非公開。初めて明かされた最期の時を超え「ミスタープロ野球」は日本の太陽として輝き続ける。   ◇   ◇   ◇数え切れないほどの思い出に浸りながら優しく語りかけた。元巨人のヤンキース松井GM付特別アドバイザーは、告別式の弔辞の冒頭で「監督、今日は素振りないですよね?」と切り出した。「(92年の)ドラフト会議で私を引き当ててくださり、満面の笑みで親指を突き上げてくれました。その後、すぐに電話で『松井君、待ってるよ』と言ってくださり、あっという間に私の心は晴れました」。この瞬間から2人の師弟関係は始まった。旧ジャイアンツ寮に入寮してから長嶋さんによる4番育成1000日計画が実行された。部屋の中で素振りを繰り返し、マンツーマン指導を受ける日々。擦り切れた畳は「松井畳」として、後輩たちに語り継がれている。この日も遺影を眺めながら「その目を見ていると『バット持ってこい。今からやるぞ』と言われそうでドキッとします」と、当時の光景が頭に浮かぶ。“夢の時間”の終わりを覚悟した日がある。01年9月28日。長嶋さんが監督退任を発表した。「私は(バットを)振っている途中、涙が止まりませんでした。これが最後の素振りになると思ったからです」。だが実際は違った。「翌日もやりましたね。そして、次の年もその次の年もやりました。私は長嶋茂雄から逃げられません。これからもそうです。それが私の幸せです」。長嶋さんが巨人の監督ではなくなっても、松井氏が米大リーグ・ヤンキースに移籍しても、2人の関係は「選手と監督」のまま。指導が終わることはなかった。だからこそ、長嶋さんとの約束を果たす日が訪れることを信じている。4日に米ニューヨークから緊急帰国。空港から長嶋さん宅へ直行し、2時間以上も2人の時間を過ごした後「生前、約束したこともあります」と明かした。「先日『約束』という言葉を使いましたけれど、自分の中でも、何かこれからの自分自身とこれからの監督との対話で、監督が導いてくれるんじゃないかなと思っています」と今はそっと胸に秘める。決して別れの日ではない。「今度は私が監督を逃がしません。ですから、今日は『ありがとうございました』も『さようなら』も私は言いません。今後も引き続き、よろしくお願いします。そして、その強烈な光でジャイアンツの未来を、日本の野球の未来を照らし続けてください」。2人の物語はこれからも続いていく。【まとめ】長嶋茂雄さん死去89歳 伝説残したミスタープロ野球 通夜、告別式で最後の別れ/1

松井秀喜氏「バット持ってこい。今はその声を聞きたいです」長嶋茂雄さんの告別式で弔辞

3日に89歳で死去した巨人長嶋茂雄終身名誉監督の通夜が7日、告別式は8日、都内の桐ケ谷斎場で執り行われた。喪主は次女・三奈さん(57)、葬儀委員長は読売新聞グループ本社代表取締役社長で読売巨人軍取締役オーナーの山口寿一氏(68)が務めた。96人が参列した告別式では、元巨人の松井秀喜氏(50=ヤンキースGM付特別アドバイザー)が弔辞のあいさつを行った。   ◇   ◇   ◇   監督、きょうは素振りないですよね? その目を見ていると、「バット持ってこい。今からやるぞ」と言われそうでドキッとします。でも、今はその声を聞きたいです。ドラフト会議で私を引き当ててくださり、満面の笑みで親指を突き上げてくれました。タイガースファンだった私は、心の中でちょっとズッコケました。しかし、その後、すぐに電話で「松井君、待ってるよ」と言ってくださり、あっという間に私の心は晴れました。監督はひとたびユニホームを着てグラウンドに出ると、強烈な光を発し、私と二人で素振りをする時は、バットマン長嶋茂雄になりました。それが私の日常でした。監督が引退された年に生まれた私は、監督の現役時代をともに過ごした方々と同じ気持ちになりたくてもなることはできません。その時代を生きていません。ですが逆に、私はその、野球の神様、長嶋茂雄というものを、肌で感じていないからこそ、普段、普通の自分自身で接することができました。それが私にとって、非常に幸運だったと思っております。監督を退任する日、私は最後の素振りだと思って、振っている途中、涙が止まりませんでした。これが最後の素振りになると思ったからです。「何泣いてんだ。タオルで涙ふいて、ほら振るぞ」。そう声をかけてくださいました。それが最後だと思っていましたが、翌日もやりましたね。そして、次の年も次の年もやりました。私は長嶋茂雄から逃げられません。これからもそうです。それが私の幸せです。監督、私は現役時代に一度だけ監督にお願いしたことを覚えていますか。私はセンターを守っておりましたが、「監督、どうせなら私、サードやらしてくださいよ」とお願いしました。そしたら、「お前はサードじゃないよ。お前はやっぱりセンターだ。俺はお前をジョー・ディマジオにしたいんだ」とおっしゃってくださいました。私は全くピンときておりませんでした。ある日、素振りで監督のご自宅にお邪魔した時、私はそこにジョー・ディマジオのバットとジョー・ディマジオの大きな写真があることに気づきました。見逃しませんでした。監督は本当にジョー・ディマジオが好きなんだなと思って、また、その選手のようになれと言ってくれたことに、本当にその時、幸せに感じました。それから私は喜んでセンターが大好きになりました。その時、監督は、私がジョー・ディマジオと同じユニホームを着て、同じグラウンドでプレーすることを夢に思っていなかったと思います。もちろん、私も思っていませんでした。私が引退して、監督に挨拶に行った時、「監督がジョー・ディマジオって言ったから、私、ヤンキースに行ったんですよ」って言ったら、この笑顔を見せてくださいました。その時、初めて私は、大好きなジャイアンツを去ることになりましたが、これで良かったんだと思いました。そして、今も遠い離れた場所にいます。日本に帰ってくるたび、監督にご挨拶に行くと、監督の言いたそうなことを、言おうとするのに言わない。でも、その気持ちはいつも受け取っておりました。これからも監督が、なぜ私だったのか、なぜ私にたくさんのことを授けてくださったのか。その意味を、その答えを、自分自身が心の中で、監督に問い続けます。今度は、私が監督を逃がしません。ですから、今日は「ありがとうございました」も、「さようなら」も、私は言いません。今後も引き続き、よろしくお願いします。そして、その強烈な光で、ジャイアンツの未来を、日本の野球の未来を照らし続けてください。【まとめ】長嶋茂雄さん死去89歳 伝説残したミスタープロ野球 通夜、告別式で最後の別れ/1

王貞治氏「私にとっては、長嶋さんは超普通の人でした」長嶋茂雄さん告別式/弔辞全文

3日に89歳で死去した巨人長嶋茂雄終身名誉監督の告別式が8日、都内の桐ケ谷斎場で執り行われた。喪主は次女・三奈さん、葬儀委員長は読売新聞グループ本社代表取締役社長で読売巨人軍取締役オーナーの山口寿一が務めた。96人が参列した告別式では、王貞治氏が弔辞のあいさつに立った。  弔辞。長嶋茂雄さん。あなたへの弔辞を読む日がこんなに早く来るとは思ってもいませんでした。あなたは日本の健康優良児でした。存在そのものが、日本人の誇りでした。グラウンドでは、一挙手一投足が、日本中のファンの心を引きつけました。日本中があなたを追いかけました。大変だったと思いますが、あなたは嫌な顔一つせず、常に明るく存在していました。太陽のように光を放っていました。本当に特別な存在でした。そんなあなたに私は迷惑ばかりかけていました。昭和34年、私が入団した年の宮崎キャンプで同室にさせられ、世間知らずの私は、部屋の片付け、布団の上げ下げなどすることもできず、揚げ句に、寝相は悪いは、いびきはかくはで、迷惑をかけっぱなしだったようで、1週間で部屋を替えさせられましたが、その間、長嶋さんは一言も文句を言いませんでした。アメリカで、ベロビーチでキャンプした時、ロサンゼルスで1泊して、フロリダに飛んだんですが、その出発の日の朝、私が寝坊してしまい、長嶋さんが天窓から部屋に入ってくれて、私を起こし、荷物をまとめてくれたので、飛行機に乗り遅れることはなく済んだこともありました。私にとっては、長嶋さんは超普通の人でした。長嶋さんは私に普通人として接してくれました。長嶋さんには頭が上がりませんでした。足を向けて寝られない人でした。そんな大恩人の長嶋さんとのこんなお別れは、到底受け入れられません。皆さんも同じだと思います。しかし、そうは言っても、現実に引き戻されてしまいます。あとは、静かに、静かにお見送りするのみです。長嶋さん、ありがとうございました。あなたとの六十有余年、私にとっては忘れることのできない貴重な年月でした。感謝するしかありません。89年間、よくぞ頑張ってくれました。日本人のために頑張ってくれました。ありがとうございました。安らかにお眠りいただくことを願うのみです。「長島茂雄」に戻ってゆっくりとお眠りください。さようなら。【まとめ】長嶋茂雄さん死去89歳 数々の伝説残したミスタープロ野球/1>>