Month: June 2025

「こういうところで行うことが大事」長嶋茂雄監督が人知れず積んでいたものとは 担当記者悼む

巨人終身名誉監督の長嶋茂雄さんが3日午前6時39分、肺炎のため都内の病院で死去した。89歳だった。  ◇  ◇  ◇   見た目の豪放さとは裏腹に、素顔は存外、細やかな神経の持ち主だったように思う。遠征先の宿舎ホテルに着くと、まず非常口の場所を確認。そこから散歩やジョグに外出していた。あいさつに出向き名刺を差し出すと「以前、いただいていますよね」と、2度目だったことを覚えてくれていて、あせった記憶がある。優勝が「1勝」ずつの積み重ねであるように、人生の集大成に向けて、その高低にかかわらず「徳」を1つずつ積み上げようとしていた。1994年(平6)8月末。遠征先で、試合までの空き時間を利用して巨人宿舎近くの公園まで散歩に行った。園内の一角に人だかりができていて、その輪の中にサインに応じる長嶋監督がいた。長嶋さんも球団関係者を伴って散歩に来ていたようだった。街中で長嶋さんを見かけること、ましてサインしてもらえる機会など、そう滅多にあるものじゃない。「今日、ここにいた方はラッキーでしたね」。私が振ると、長嶋さんは言った。「エッヘッヘ…。練習もそうですけど、ファンサービスも人前でやるものではなく、こういう何気ないところで行うことが、われわれには大事なんです。陰で積むから『陰徳』というんですよ」陰徳は、昭和の陽明学者、哲学者、思想家である安岡正篤(まさひろ)の教えに出てくる。94年の巨人といえば、中日との「10・8」最終戦決戦で優勝し、西武との日本シリーズも制し長嶋さんにとって初の「日本一」に輝いた。その要因の1つとして、陰徳は力を与えていたと思う。最後は、長嶋さんが信奉した安岡の言葉で偲(しの)びたい。「偉(えら)くなることは必ずしも富士山のように仰がれるようになるためではない。なるほど富士山は立派だけれども、それよりも何よりも立派なのは大地である。この大地は万山を載せて一向に重しとしない。限りなき谷やら川やらを載せてあえていとわない。常に平々坦々としておる。この大地こそ本当の徳である。我々もこの大地のような徳を持たなければならぬ。大地のような人間にならなければならぬ」そうだ。長嶋さんは大地に還っていったのだ。【93、94年巨人担当=玉置肇】ミスタープロ野球 長嶋茂雄さん死去89歳 数々の伝説残した巨人軍終身名誉監督/まとめ-->>

巨人の原辰徳前監督が「憧れの人」長嶋茂雄さんとの思い出を語る ドラフト指名当日の特別な電話とは…

プロ野球界の偉大な存在である巨人軍終身名誉監督、長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分に肺炎のため東京都内の病院で他界されました。享年89でした。巨人軍の前監督、原辰徳氏(66)は都内で報道陣のインタビューに応じ、長嶋氏との数々の思い出を語りながら哀悼の意を示しました。以下はインタビューの内容です。-訃報を聞いたとき本当に驚きました。ただ、こういう日がいつか来ることを頭の片隅では理解していました。-最後に長嶋さんにお会いしたのはいつですか最後にお会いしたのは今年3月に東京ドームで行われたドジャースとジャイアンツの試合の際でした。偶然にも私もその場に居合わせ、挨拶を交わしました。-その時の長嶋さんの様子は?球場にお越しになる際はいつも通り元気で、私たちにも気配りをしてくださる姿がありました。-長嶋さんとの関わりについて私にとっては少年時代からの憧れの存在であり、野球に限らず、多くの意味での象徴でした。厳しい勝負の世界にありながらも人に対する優しさを持ち、多くの人々に愛された存在だったと思います。長嶋さんと共に時を過ごすことで、選手、コーチ、監督として多大な影響を受け、私の中で燦然と輝く大きな出来事でした。彼のことを胸に刻み、見送りたいと思います。-最も印象に残っている思い出は?様々な思い出がありますが、特に22歳の時、東海大学からドラフトで巨人軍に指名された年のことです。当時は長嶋監督がお辞めになり、藤田監督が私を迎えてくださったことを覚えています。その晩、突然自宅に電話があり、「長嶋茂雄です」と名乗って、「君が巨人軍に入ることは非常に嬉しい」と喜んでくださいました。その時の言葉が私の自信となり、巨人軍のユニホームに袖を通すことができました。この出来事は私にとって非常に大きな財産です。-プロ野球界にとっての長嶋茂雄さんとは?多くの偉大な先輩がいる中で、長嶋さんは燦然と輝く野球界の象徴的存在です。私にとっては神様のような存在でした。

【号外をお手元に】長嶋茂雄さん特別版をダウンロードしよう

プロ野球・巨人の元監督であり、巨人軍の終身名誉監督である長嶋茂雄さんが3日に東京の病院で亡くなられました。日刊スポーツは彼の功績を称えるために特別な号外を発行しました。この号外は東京の有楽町、新橋、秋葉原、築地本社前の4つの場所で配布されました。国民的に愛された「ミスタープロ野球」の偉大な歴史を振り返るため、特別紙面をPDF形式でも提供しております。【登録して全文を読む】ボタンをクリックして簡単な登録を行えば、PDFをダウンロードすることができます。 

王貞治会長、長嶋茂雄氏を悼む「日本球史に輝く長嶋さんと共に野球をできたことを感謝」

ソフトバンクの王貞治球団会長(85)は、3日に亡くなった巨人軍の終身名誉監督、長嶋茂雄氏(享年89)を偲び、コメントを発表しました。王会長:「突然の訃報に大変驚いております。長嶋さんは日本の野球史に燦然と輝く存在であり、彼が闘病の末に旅立たれてしまったことは本当に残念でなりません。長嶋さんには数多くのことを教えていただきました。一緒に野球をできたことに本当に感謝しています。心よりご冥福をお祈りいたします。」長嶋氏はプロ野球、読売ジャイアンツの監督を2度にわたり15年間務め、3日午前6時39分に肺炎のため東京都内の病院で他界しました。「ON砲」として知られる長嶋氏と王会長は、巨人の黄金期を築き、1965年から1973年まで日本シリーズ9連覇を成し遂げました。2人が同じ試合でホームランを打ったのは1959年6月25日の天覧試合が最初で、通算106回に及びます。もちろん、これはアベックホームランの最多記録です。連続ホームランの回数は29回、長嶋→王の順番が6回、王→長嶋の順番が23回ありました。昨年の11月30日に行われた「ジャイアンツ・ファンフェスタ 2024」では、巨人軍の歴代OBが集まり、ONの共演も実現しました。王会長は、長嶋氏と再会の握手を交わし、「球団創設90周年の節目に、そのような熱心なファンの皆様の前で、現役選手や巨人に在籍した多くのOBが一堂に会することを、私たち自身が本当に楽しみにしていました。久しぶりの再会を幸せに感じています」と喜びを語っていました。

大谷翔平、故長嶋茂雄氏に捧げる23号ソロ本塁打 129メートルの特大アーチを確信

ロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平投手(30)が「1番DH」としてスタメン出場し、第4打席で6月初となる23号ソロ本塁打を放ちました。7回二死の場面で、右投手クラニックと対戦。初球のカーブを鋭くすくい上げ、右翼席への特大のアーチを描きました。この一打は打った瞬間にホームランを確信できるもので、打球速度は113.9マイル(約184キロ)、飛距離は424フィート(約129メートル)、角度は38度でした。1回の第1打席では右腕ブラックバーンと対戦し、カウント2-2から低めのカーブに対して空振り三振を喫しました。続く第2打席、3回二死の場面ではフルカウントから外角のカーブに対応できず、再び空振り三振となりました。第3打席では5回二死一、二塁の場面で、カウント3-1から外角のチェンジアップを引っかけ、二ゴロに倒れました。試合前、大谷は自身のインスタグラムで、亡くなった巨人軍の終身名誉監督、長嶋茂雄氏(享年89)を悼む投稿を行いました。今年3月の東京開幕シリーズでのツーショット写真と共に「心よりご冥福をお祈りいたします」と綴りました。今季大谷は試合前時点で打率2割9分3厘、22本塁打、37打点、11盗塁を記録。OPSは1.045をマークしています。

「セコム、してますか?」故長嶋茂雄さんと35年の歩み「多大なるご尽力を」今年は大谷翔平との夢対決も

「セコム、してますか?」と言えば、3日に亡くなった巨人軍の終身名誉監督、長嶋茂雄さんを思い出す方も多いでしょう。セコムの広告でおなじみのフレーズです。この日、セコムはX(旧ツイッター)で「セコム広報です。3日、長嶋茂雄さんがご逝去されました。享年89歳でした。長嶋さんには当社のアンバサダーとして1990年から35年間、貢献していただきました。長嶋さんの偉大な功績に心より感謝し、謹んでご冥福をお祈りいたします」と投稿しました。東京ドームにはセコムの看板が掲げられており、多くの人々に親しまれています。同社のホームページでは、過去の広告作品の数々が見られますが、今年はそこに新しい「顔」が加わりました。それはMLBドジャースに所属する大谷翔平選手です。今年3月、セコムは長嶋さんと大谷選手が登場する新しいCMを発表しました。このCMでは、合成映像を用いて、メジャーリーグを代表する大谷選手が投手としてマウンドに立ち、ミスタープロ野球と呼ばれる長嶋さんを打席に迎えるシーンが描かれています。東京ドームの電子看板も、この新CMに合わせて2種類のパターンを用意し、若返ったミスターの姿と大谷バージョンの2つを時間ごとに表示しています。

「こちらにいらっしゃい」長嶋茂雄監督が苦悩する記者に掛けた一言とは 担当記者を悼む

巨人キャップ時代、私は長嶋茂雄監督の進退についての記事を書きました。96年には「メークドラマ」で歓喜を味わいましたが、97年にはBクラスとなり、98年の契約最終年もチームの調子は低迷していました。そんな中、国民的ヒーローである長嶋監督の記事を書く重圧は計り知れないものでした。暑い夏の幕開けです。 7月31日に行われた阪神戦で、ガルベス投手が暴挙を起こし、出場停止となりました。長嶋監督は丸刈りになって謝罪しましたが、チームは不調を続けました。そして1か月後、「長嶋監督が辞意を表明」と一面で報じました。 その記事が出た日の朝、自宅近くでランニング中の監督に偶然出会いました。私は内心、心臓が張り裂けそうでしたが、監督は驚くことに笑顔を浮かべていました。「新聞を買いましたよ、えっへっへ。家でじっくり読みますからね」とおっしゃった監督の清らかで澄んだ目は今でも忘れられません。 その頃、読売新聞本社は次期監督候補との交渉を終えていました。しかし、長嶋監督は後任の選定に関与できなかったことに怒り、最終的には辞任を撤回しました。世論も「また読売が解任するのか」というムードに包まれ、渡辺オーナーもこれに応じて急転直下で続投が決まりました。 結果として、記事は誤報でした。どう責任を取るべきか悩んだ末、監督に時間をいただくことにしました。厳しい表情で「こちらにいらっしゃい」と呼ばれたのは、ヤクルト戦の試合前、神宮球場の三塁ベース付近でした。 「私はね、野球についてはどんなことを書かれても気にしません。野球以外やプライベートについては怒ることもありますけどね。だから(辞任の記事は)終わったこと。何のわだかまりもありませんよ。だって田さんだって書くのが仕事でしょう」。不覚にも、涙が出そうになりました。記事を書いた者として、そして人間として救われる思いでした。その時、三塁側の観客席から「ナガシマさ~ん!」というファンの声が上がりました。監督は毛むくじゃらの右腕を上げ、その声援に応えました。「サードの守備位置から観客席を見上げるのが好きだった」という話を聞いたことがあります。私もその時、同じ方向を見上げてみました。この光景か…。長嶋茂雄は、ファンに、そして野球に愛され続けてきたのだと実感しました。【97、98年巨人キャップ・田 誠】

上原浩治氏、Legendaryな長嶋茂雄氏への哀悼「心に残る多くの思い出があり、思い返すと胸がいっぱいになります」

巨人軍の終身名誉監督である長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分に肺炎のため都内の病院で逝去しました。享年89歳でした。 上原浩治氏(50歳)にとって、長嶋さんは1999年に巨人に入団した際の監督であり、プロとしての第一歩を共に踏み出した存在です。以下にコメントを紹介します。 突然の訃報に接し、言葉を失っております。 ドラフト、プロ入り初年度、ジャイアンツ時代、そしてオリンピック…。その全てにおいて長嶋さんとの多くの思い出があり、それを思い返すと胸がいっぱいになります。 東京ドームでお会いするたびに、長嶋さんの笑顔とお言葉から元気をいただいていました。 プロの世界に入ってから、数え切れないほどのご指導をいただき、心より感謝しております。 長嶋監督のご冥福を、心からお祈り申し上げます。

桑田真澄氏が語る長嶋茂雄監督の「10・8」信条:「ファンの皆さんのために」

巨人2軍監督の桑田真澄氏(57)は、3日に逝去した長嶋茂雄終身名誉監督との思い出を振り返った。練習が行われた川崎市内のジャイアンツ球場で取材陣に応じ、「思い出の『10・8』もそうですが、困難な時こそ楽しむことを学びました。『ファンの皆さんのためにやろうじゃないか』というお言葉がよく思い出されます」と語り、選手時代に栄光を共にした指揮官の姿を振り返った。「10・8」とは1994年10月8日、中日との史上初の同率首位決戦で6-3で勝利し、セ・リーグ制覇を成し遂げた日です。「国民的行事」として位置付けた長嶋監督を5度胴上げしました。「『しびれるところで行こう』と監督が言われたので、『監督、試合自体がしびれるのですが、いつ準備すればいいですか』と尋ねると、『しびれる場面で』とお答えになる。試合序盤で、『監督、どのイニングで』と尋ねても『しびれるところで』と懐かしんでいます。その試合前には名古屋のホテルに呼ばれて、直接伝えられたと言います。現在、桑田氏自身が監督という立場になり、「2軍の首脳陣、スタッフ、選手たちにはプロとして結果を残すこと、ファンサービス、メディア対応、さらにスポンサー対応もプロとして当然の務めであると伝えています。これは長嶋さんから学んだことで、僕も若い選手に教えています」と語り、偉大な師の教えを後輩たちに受け継いでいます。

長嶋茂雄さん死去 89歳 巨人軍終身名誉監督としての輝かしいキャリア

巨人軍の監督を2期にわたり15年間務めた長嶋茂雄さんが、3日午前6時39分に肺炎のため、東京都内の病院で息を引き取りました。89歳でした。彼の死去は、読売新聞グループ本社、読売巨人軍、オフィスエヌからの連名で発表されました。 葬儀および告別式は近親者のみで執り行われますが、後日お別れの会を予定しており、日程や会場は決まり次第公表される予定です。 2004年、長嶋さんはアテネ五輪の日本代表監督在任中に脳梗塞で倒れ、右半身に後遺症が残りました。しかし、懸命にリハビリを続け、2007年2月には巨人キャンプを訪問できるほどに回復しました。同年、松井秀喜さんと共に国民栄誉賞を受賞し、東京ドームでの授賞式では始球式において左手だけでスイングし、観衆を沸かせました。 2018年7月には胆石で入院し、一時は黄疸の症状も見られました。しかし、再び回復し、2021年の東京五輪開会式では聖火ランナーを務めました。22年9月には転倒による脳内出血で入院し、その後も療養を続けました。それにもかかわらず、2023年には東京ドームでのイベントに姿を現し、ファンや新監督の阿部慎之助さんを励ましました。 24年5月3日には東京ドームで開催された巨人軍創設90周年記念試合「長嶋茂雄DAY」で松井秀喜さんとともに登場しました。それ以外の日も球場を訪れ、選手たちを激励していました。 長嶋茂雄さんは1936年2月20日、千葉県印旛郡臼井町(現在の佐倉市)生まれ。立教大学では名プレイヤーとして知られ、巨人入団1年目から傑出した成績を収めました。現役引退後も監督として活躍し、数々のタイトルを獲得しました。1988年には野球殿堂入りを果たしました。 家族には、故・亜希子夫人との間に長男の長嶋一茂さん、長女の有希さん、次女の三奈さん、次男の正興さんがいます。