Month: June 2025

【ヤクルト】ついにプロ野球ワースト達成…13試合連続で2得点以下 深刻な貧打で6連敗、負け越し18

ヤクルトはサヨナラ負けを喫し、プロ野球では前例のない13試合連続の屈辱的な記録を更新し、6連敗となりました。延長11回、1アウト一、二塁からセデーニョが三塁と遊撃手の間に内野安打を放ちました。遊撃手の伊藤がボールを三塁へ投げる際に悪送球し、ボールがファウルゾーンへと進む間に決勝点を献上しました。西武の先発投手隅田に対して、9回途中までに8安打を放ちながらも得点することができませんでした。0-0の9回、2アウト一、三塁のチャンスでは、オスナが2番手ウィンゲンターに対してライトフライに倒れ、あと一打が出ませんでした。5月18日のDeNA戦から続く13試合連続で2得点以下は、1962年の国鉄(現ヤクルト)と1993年の巨人の12試合を超え、プロ野球のワースト記録となりました。今回も“2点の呪縛”から逃れることができず、借金は18になりました。

【中日】井上監督、7回の走塁ミスに怒り「恥ずかしい」「あんなプレーやってたら勝てませんわ」

中日ドラゴンズの井上一樹監督(53)が、試合の7回に起きた走塁ミスに対して強い怒りを示しました。「プロ野球選手として恥ずかしい。あんなプレーやってたら勝てませんわ」とコメントしました。 7回、1アウト一、二塁の場面で、村松開人内野手(24)が右越えのヒットを打ちましたが、二塁走者の高橋周平内野手(31)が三塁ベースで止まってしまいました。一塁をオーバーランした村松は挟まれ、その間に高橋も飛び出し、三塁と本塁の間で挟まれてアウトになりました。 「プロ野球選手である以上、ちょっとミーティングでも話したんだけど、それは恥ずかしいと思っている。『ワンアウトでしょ』っていうね。1アウトの場面で二塁走者の高橋がタッチアップを試みて、それよりも一塁走者板山は詰めていた。そして打った村松はツーベースだと確信していた」と状況を説明しました。 「しかし、全員が何を確認しきれなかったのか。『アウトカウント』なのか、『1アウトならハーフウェー』なのか。打った村松も、打った感覚では分かっていると思うけど、『前が詰まっているかどうか』確認できていたか。3人それぞれ反省すべき点がある」と話しました。 「でも、あれは説明しようとも、私たちも子供の頃から野球をしている。だから『あんなプレーやってたんでは、勝てませんわ』っていう話ですよ」とあきれた表情を見せました。 公式戦で2年に1度しか行われない福岡のペイペイドームでの試合であり、普段は頻繁にナゴヤドームでプレーしていますが、『追い方を見て』と頭を完全に越える打球ではあったと苦言を呈しました。「右翼手の近藤が、ちょっと捕れそうな雰囲気を出していたのは確かにうまかったが、『そこで慌てる必要はないでしょ』ということだった」と相手のフェイクを褒めつつ、残念な走塁ミスで、ソフトバンクを上回る9安打を放ちながらも今季12度目の完封負けとなりました。   ▼中日 高橋周「(村松)開人にも申し訳ないし、チームにも。2度とやらないようにしていきたい。普通にハーフウェーでプレーすれば、なんてことないプレーだった」

「4番サード長嶋」が生まれた背景〜高校時代の転機となる4つの失策とは

巨人軍の監督を2期15年にわたって務めた、巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分、肺炎のため、東京都内の病院でこの世を去りました。享年89歳でした。   ◇   ◇   ◇「4番サード長嶋」という異名は、4つの失策から始まりました。長嶋さんは高校(佐倉一=現佐倉)時代、3年生の春までは「4番ショート」として活躍していました。入学当初170センチ未満だった身長は急激に成長し180センチ近くに。大きくなった体に対応しきれず、凡庸なゴロをさばき切れずに失策が目立つようになりました。1953年(昭和28年)6月14日、佐倉一、市川、県船橋の3校が集まり、変則ダブルヘッダーの練習試合が行われました。第1試合の県船橋戦で長嶋さんはなんと4つの失策を犯しました。当時の加藤哲夫監督は、コンバートを考慮し、第2試合の市川戦のメンバー表に「4番サード長嶋」と記載しました。サードへ移ると長嶋さんは水を得た魚のように活躍し始めました。失策が減少し、打撃も向上し、夏の南関東大会1回戦では大宮県営球場での伝説のバックスクリーン弾につながりました。高校時代唯一の公式戦本塁打は関係者の間で大きな話題となり、6大学のスターからミスタープロ野球へと駆け上がるきっかけとなりました。1982年(昭和57年)に発刊された佐倉高校創立80周年記念校史の中で、長嶋さんは当時をこう振り返りました。「サードという自分の性格に合った攻撃的なポジションにコンバートされたことが、現在の私を形作ったと思います。もしショートやセカンドでプレーしていたならば、また違った野球人生を歩んでいたでしょう。」

「けじめをつけるんだ」巨人監督長嶋茂雄が丸刈り頼んだ理髪店「もう少し通ってほしかった」

3日朝に亡くなった長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督(享年89)がかつて、丸刈り頭で球場入りし、ファンらを驚かせたのも記憶に残る名シーンだった。そんな丸刈りを頼むなどミスターが現役時代から50年以上通った理髪店「文化理髪室」は現在、東京都大田区にある。店長の吉田博さん(78)は「当時の長嶋さんは髪が長くて帽子姿で来ると、いきなり『五分刈り、三分刈りにしてくれ』って言い出してね」と懐かしそうに振り返った。1998年夏、松井秀喜と清原和博の「MK砲」を擁した長嶋巨人はV戦線生き残りへがけっぷちだった。7月31日の阪神戦(甲子園)では、ガルベスが審判員にボールを投げつけて無期限の出場停止。8月2日は乱闘の末、武上打撃コーチが出場停止処分を受けた。チームの不振に、相次ぐ不祥事。厳しい現実に長嶋監督は心を痛めていた。契約最終年で去就も問われていた。同月の広島戦前に指揮官が訪れたのは、当時渋谷区にあった吉田さんが営む理髪店。ゴルフキャップをかぶって来店すると、担当だった弟の明さんに「吉田君さ、丸坊主にするにはどれぐらいにすればいい。けじめをつけるんだ」と興奮気味に聞いてきた。突然の注文に戸惑ったが、明さんは手動バリカンを使って刈り上げた。「いやー、学生以来だな」。長嶋氏は立大以来の丸刈り頭になっていた。ミスターの丸刈り頭はその後、チーム内の危機感を生み、監督続投にもつながった。一連の出来事に兄の博さんは「一つの癒やしではなく成功につなげてくれたのがうれしかった」。さらには「スランプで店に来た日でも嫌な顔一つしなかったね。本当に切り替えの早い人だった」とミスターの人間力を感じ取った。店は長嶋氏が入団2、3年目の時に、ある野球解説者の紹介で訪れたのがきっけだった。多い時は週2、3回通った。お気に入りメニューはシャンプー。店内に置いて帰っていた老眼鏡をかけて、雑誌を読みながら受けていたという。03年に大田区に移転した後も、病気のリハビリも兼ねて通ってくれた。2階の店内へ階段で上がる時はいつも「エッサ、エッサ」と声を出す。散髪後に「取っておいた方がいいよ」と言われた白髪交じりの毛は博さんが大切に保管している。博さんが長嶋氏を目にしたのは、東京五輪で聖火ランナーを務めた21年が最後と言うが、毎年、写真カレンダーが届くなど親交は長く続いていた。「偉大な長嶋さんのおかげで店が繁盛したのもある。もう少し長く通ってほしかったけど、天国からうちの店を見ていてほしい」と話した。【泉光太郎】長嶋茂雄さん死去89歳 数々の伝説残したミスタープロ野球/まとめ>>

清原和博氏が長嶋茂雄さんへの感謝を述べる「夢の巨人軍へ導いていただいた」** **

** プロ野球で通算525本塁打を記録した清原和博氏(57)が、3日に89歳で他界した巨人軍の終身名誉監督、長嶋茂雄さんへの追悼メッセージをXに投稿しました。監督と選手としての深い関係を持っていた清原氏は、「突然の訃報に驚いています。自分の夢であった巨人軍に導いてくださったのは長嶋さんでした。調子が上がらず苦しい時、遠征先のホテルでバットを振り続け、ご指導いただいたことが最も心に残っています。心からの感謝と共に、ご冥福をお祈りします。」と追悼の意を述べました。

王貞治氏「長嶋さんは何でも許されてしまう、不思議な存在」 長嶋茂雄氏との現役時代の思い出を語る

ソフトバンクの王貞治球団会長(85歳)は3日、東京にある読売新聞東京本社ビルで記者の取材に応じ、この日に89歳で亡くなった長嶋茂雄氏、巨人軍終身名誉監督としての現役時代の思い出を振り返りました。長嶋氏と王会長は「ON砲」として巨人の黄金期を築き、1965年から1973年までの日本シリーズ9連覇を支えました。王会長は現役時代の長嶋氏について、「グラウンドのプレーだけでなく、人柄そのものも魅力的でした。ユーモアがあり、明るく、長嶋さんなら何でも許されてしまうような不思議な存在でしたね」と懐かしんで語りました。印象深い試合として1968年9月18日の阪神とのダブルヘッダー第2試合(甲子園)を挙げました。王会長は頭部に死球を受けて病院に直行しましたが、直後に長嶋氏が35号3ランホームランを放ちました。王会長はその場面を振り返り「長嶋さんの思いが結果として形になったのだと思います。実際の場面は見ていないのですが、長嶋さんのすごさを感じました。悔しさを晴らしてくれた特別な人でした」と話しました。さらに「私にとって、代わりに恨みを晴らしてくれる特別な存在だったと言えますね」と続けました。

長嶋一茂氏がコメントを発表「長嶋茂雄は野球の星に帰りました」

3日に89歳で他界した巨人終身名誉監督・長嶋茂雄さんの長男である長嶋一茂氏(59)が、同日にコメントを発表しました。 「長嶋茂雄を応援してくださったファンの皆様、そして関係者の皆様へ 父・長嶋茂雄は永眠いたしました。彼にとって野球は人生そのものであり、最愛の存在でした。 長嶋茂雄が野球に人生を捧げることができたのも、ファンの皆様をはじめとする野球関係者やスポンサーの皆様の温かいご支援の賜物です。 父の野球人生は、誰よりも幸せな89年間だったと感じております。 長嶋茂雄は野球の星へと帰りました。生前、グラウンドで見せた沢山の情熱が、これからの日本プロ野球の発展に少しでも寄与することを彼も願っていたのではないかと思います。 長い間、父の長嶋茂雄に温かいご声援を賜り、心より感謝申し上げます。 長嶋一茂」(原文まま)

「重岡銀次朗選手の回復に向けた前進」

元IBF世界ミニマム級王者である重岡銀次朗選手(25歳、ワタナベ所属)が5月24日の試合後に急性硬膜下血腫のため緊急の開頭手術を受けたことに関して、彼の兄で元WBC世界同級王者の重岡優大さん(28歳、ワタナベ所属)が3日、インスタグラムのストーリーズで弟の容体について報告しました。優大さんは、家族が励ましのメッセージを書き込んだ千羽鶴の写真とともに、「今日から銀次朗は麻酔を徐々に減らしていて、少し目を開けている状態です。声をかけると口を動かしたり、あくびをしたりすることがあり、意識が少しずつ戻ってきているような感じでした。瞬きもしていました。これからさらに意識がはっきりしてくるのではないかと思います。」と述べました。 現在も集中治療室(ICU)で経過観察が続いている銀次朗選手について、「近いうちにICUから一般病棟に移ることができそうです。少し安心しました。」と報告しました。また、銀次朗選手の友人たちに対して、「銀に音声メッセージをもっと聞かせたいと思っています。すでに多くの友人が送ってくれて感謝しています。短くてもいいので、ぜひまた送ってください。毎日、銀に聞かせます。多くの方が銀を心配してくれて、みんなに愛されているのを感じ、兄として誇りに思います。引き続き銀次朗の応援をよろしくお願いします。」とメッセージを送っています。

長嶋茂雄さんのご遺体が自宅に戻る

長年にわたりプロ野球巨人軍の監督として活躍し、終身名誉監督を務めた長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分、肺炎のために東京都内の病院でこの世を去りました。89歳でした。同日午後1時22分頃、長嶋さんのご遺体を乗せた車が東京都内のご自宅に到着しました。同行していたのは長男の一茂さんと次女の三奈さんでした。その後、ソフトバンク球団会長の王貞治(おう・さだはる)氏(85)がご自宅を訪問されました。通りすがりに手を合わせる人々の姿も見受けられました。

長嶋茂雄さんの名言パネル 写真と共に振り返る不滅の言葉「わが巨人軍は…」「初めて還暦を」

プロ野球の巨人で2期にわたり15年間監督を務められた、巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分、肺炎により東京都内の病院で逝去されました。享年89歳。読売新聞グループ本社、読売巨人軍、オフィスエヌが共同で発表しました。 写真と名言で振り返る長嶋さんの歴史 1957年11月3日 ◆1957年11月3日(立教大学時代の最終戦、慶應義塾大学戦で新記録の8号本塁打を放ち)「最後のチャンスを生かすことができました。今になって思いますね、私はやはりラッキーボーイだった、と」 1958年4月5日 ◆1958年4月5日(デビュー戦で国鉄の金田選手に4打席連続で三振を喫して)「ご覧の通りのありさまです。今日は全然ダメでした」 1961年3月 ◆1961年3月(米国ベロビーチのキャンプ中で)「アメリカの子供は英語がうまいね」 1964年11月26日 ◆1964年11月26日(亜希子夫人との婚約発表会見で)「初対面から好きになりました。恋なんてわからなかったが、やっとどういう気持ちになるのか分かりました」 1974年10月12日 ◆1974年10月12日(引退を決意した際に)「小さな白い球との長い戦いが終わったことを知りました」 1974年10月14日 ◆1974年10月14日(後楽園球場での引退セレモニーで)「私は今日ここに引退いたしますが、わが巨人軍は永久に不滅です」 1976年10月16日 ◆1976年10月16日(初優勝の胴上げについて)「文字通り、宙に舞うような気分でした」 1992年11月21日 ◆1992年11月21日(ドラフト会議で星稜・松井選手を引き当て)「(くじを)オープンしまして『選択確定』の文字が出たときに、思わずうれしくなって」 1994年10月8日 ◆1994年10月8日(中日との同率決戦に勝ち、5度胴上げされ)「言葉に表せないくらい。まさに竜の背中にまたがって天に昇るような気持ち良さを味わわせてもらいました」...