Month: June 2025

長嶋一茂氏がコメントを発表「長嶋茂雄は野球の星に帰りました」

3日に89歳で他界した巨人終身名誉監督・長嶋茂雄さんの長男である長嶋一茂氏(59)が、同日にコメントを発表しました。 「長嶋茂雄を応援してくださったファンの皆様、そして関係者の皆様へ 父・長嶋茂雄は永眠いたしました。彼にとって野球は人生そのものであり、最愛の存在でした。 長嶋茂雄が野球に人生を捧げることができたのも、ファンの皆様をはじめとする野球関係者やスポンサーの皆様の温かいご支援の賜物です。 父の野球人生は、誰よりも幸せな89年間だったと感じております。 長嶋茂雄は野球の星へと帰りました。生前、グラウンドで見せた沢山の情熱が、これからの日本プロ野球の発展に少しでも寄与することを彼も願っていたのではないかと思います。 長い間、父の長嶋茂雄に温かいご声援を賜り、心より感謝申し上げます。 長嶋一茂」(原文まま)

「重岡銀次朗選手の回復に向けた前進」

元IBF世界ミニマム級王者である重岡銀次朗選手(25歳、ワタナベ所属)が5月24日の試合後に急性硬膜下血腫のため緊急の開頭手術を受けたことに関して、彼の兄で元WBC世界同級王者の重岡優大さん(28歳、ワタナベ所属)が3日、インスタグラムのストーリーズで弟の容体について報告しました。優大さんは、家族が励ましのメッセージを書き込んだ千羽鶴の写真とともに、「今日から銀次朗は麻酔を徐々に減らしていて、少し目を開けている状態です。声をかけると口を動かしたり、あくびをしたりすることがあり、意識が少しずつ戻ってきているような感じでした。瞬きもしていました。これからさらに意識がはっきりしてくるのではないかと思います。」と述べました。 現在も集中治療室(ICU)で経過観察が続いている銀次朗選手について、「近いうちにICUから一般病棟に移ることができそうです。少し安心しました。」と報告しました。また、銀次朗選手の友人たちに対して、「銀に音声メッセージをもっと聞かせたいと思っています。すでに多くの友人が送ってくれて感謝しています。短くてもいいので、ぜひまた送ってください。毎日、銀に聞かせます。多くの方が銀を心配してくれて、みんなに愛されているのを感じ、兄として誇りに思います。引き続き銀次朗の応援をよろしくお願いします。」とメッセージを送っています。

長嶋茂雄さんのご遺体が自宅に戻る

長年にわたりプロ野球巨人軍の監督として活躍し、終身名誉監督を務めた長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分、肺炎のために東京都内の病院でこの世を去りました。89歳でした。同日午後1時22分頃、長嶋さんのご遺体を乗せた車が東京都内のご自宅に到着しました。同行していたのは長男の一茂さんと次女の三奈さんでした。その後、ソフトバンク球団会長の王貞治(おう・さだはる)氏(85)がご自宅を訪問されました。通りすがりに手を合わせる人々の姿も見受けられました。

長嶋茂雄さんの名言パネル 写真と共に振り返る不滅の言葉「わが巨人軍は…」「初めて還暦を」

プロ野球の巨人で2期にわたり15年間監督を務められた、巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分、肺炎により東京都内の病院で逝去されました。享年89歳。読売新聞グループ本社、読売巨人軍、オフィスエヌが共同で発表しました。 写真と名言で振り返る長嶋さんの歴史 1957年11月3日 ◆1957年11月3日(立教大学時代の最終戦、慶應義塾大学戦で新記録の8号本塁打を放ち)「最後のチャンスを生かすことができました。今になって思いますね、私はやはりラッキーボーイだった、と」 1958年4月5日 ◆1958年4月5日(デビュー戦で国鉄の金田選手に4打席連続で三振を喫して)「ご覧の通りのありさまです。今日は全然ダメでした」 1961年3月 ◆1961年3月(米国ベロビーチのキャンプ中で)「アメリカの子供は英語がうまいね」 1964年11月26日 ◆1964年11月26日(亜希子夫人との婚約発表会見で)「初対面から好きになりました。恋なんてわからなかったが、やっとどういう気持ちになるのか分かりました」 1974年10月12日 ◆1974年10月12日(引退を決意した際に)「小さな白い球との長い戦いが終わったことを知りました」 1974年10月14日 ◆1974年10月14日(後楽園球場での引退セレモニーで)「私は今日ここに引退いたしますが、わが巨人軍は永久に不滅です」 1976年10月16日 ◆1976年10月16日(初優勝の胴上げについて)「文字通り、宙に舞うような気分でした」 1992年11月21日 ◆1992年11月21日(ドラフト会議で星稜・松井選手を引き当て)「(くじを)オープンしまして『選択確定』の文字が出たときに、思わずうれしくなって」 1994年10月8日 ◆1994年10月8日(中日との同率決戦に勝ち、5度胴上げされ)「言葉に表せないくらい。まさに竜の背中にまたがって天に昇るような気持ち良さを味わわせてもらいました」...

「こういうところで行うことが大事」長嶋茂雄監督が人知れず積んでいたものとは 担当記者悼む

巨人終身名誉監督の長嶋茂雄さんが3日午前6時39分、肺炎のため都内の病院で死去した。89歳だった。  ◇  ◇  ◇   見た目の豪放さとは裏腹に、素顔は存外、細やかな神経の持ち主だったように思う。遠征先の宿舎ホテルに着くと、まず非常口の場所を確認。そこから散歩やジョグに外出していた。あいさつに出向き名刺を差し出すと「以前、いただいていますよね」と、2度目だったことを覚えてくれていて、あせった記憶がある。優勝が「1勝」ずつの積み重ねであるように、人生の集大成に向けて、その高低にかかわらず「徳」を1つずつ積み上げようとしていた。1994年(平6)8月末。遠征先で、試合までの空き時間を利用して巨人宿舎近くの公園まで散歩に行った。園内の一角に人だかりができていて、その輪の中にサインに応じる長嶋監督がいた。長嶋さんも球団関係者を伴って散歩に来ていたようだった。街中で長嶋さんを見かけること、ましてサインしてもらえる機会など、そう滅多にあるものじゃない。「今日、ここにいた方はラッキーでしたね」。私が振ると、長嶋さんは言った。「エッヘッヘ…。練習もそうですけど、ファンサービスも人前でやるものではなく、こういう何気ないところで行うことが、われわれには大事なんです。陰で積むから『陰徳』というんですよ」陰徳は、昭和の陽明学者、哲学者、思想家である安岡正篤(まさひろ)の教えに出てくる。94年の巨人といえば、中日との「10・8」最終戦決戦で優勝し、西武との日本シリーズも制し長嶋さんにとって初の「日本一」に輝いた。その要因の1つとして、陰徳は力を与えていたと思う。最後は、長嶋さんが信奉した安岡の言葉で偲(しの)びたい。「偉(えら)くなることは必ずしも富士山のように仰がれるようになるためではない。なるほど富士山は立派だけれども、それよりも何よりも立派なのは大地である。この大地は万山を載せて一向に重しとしない。限りなき谷やら川やらを載せてあえていとわない。常に平々坦々としておる。この大地こそ本当の徳である。我々もこの大地のような徳を持たなければならぬ。大地のような人間にならなければならぬ」そうだ。長嶋さんは大地に還っていったのだ。【93、94年巨人担当=玉置肇】ミスタープロ野球 長嶋茂雄さん死去89歳 数々の伝説残した巨人軍終身名誉監督/まとめ-->>

巨人の原辰徳前監督が「憧れの人」長嶋茂雄さんとの思い出を語る ドラフト指名当日の特別な電話とは…

プロ野球界の偉大な存在である巨人軍終身名誉監督、長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分に肺炎のため東京都内の病院で他界されました。享年89でした。巨人軍の前監督、原辰徳氏(66)は都内で報道陣のインタビューに応じ、長嶋氏との数々の思い出を語りながら哀悼の意を示しました。以下はインタビューの内容です。-訃報を聞いたとき本当に驚きました。ただ、こういう日がいつか来ることを頭の片隅では理解していました。-最後に長嶋さんにお会いしたのはいつですか最後にお会いしたのは今年3月に東京ドームで行われたドジャースとジャイアンツの試合の際でした。偶然にも私もその場に居合わせ、挨拶を交わしました。-その時の長嶋さんの様子は?球場にお越しになる際はいつも通り元気で、私たちにも気配りをしてくださる姿がありました。-長嶋さんとの関わりについて私にとっては少年時代からの憧れの存在であり、野球に限らず、多くの意味での象徴でした。厳しい勝負の世界にありながらも人に対する優しさを持ち、多くの人々に愛された存在だったと思います。長嶋さんと共に時を過ごすことで、選手、コーチ、監督として多大な影響を受け、私の中で燦然と輝く大きな出来事でした。彼のことを胸に刻み、見送りたいと思います。-最も印象に残っている思い出は?様々な思い出がありますが、特に22歳の時、東海大学からドラフトで巨人軍に指名された年のことです。当時は長嶋監督がお辞めになり、藤田監督が私を迎えてくださったことを覚えています。その晩、突然自宅に電話があり、「長嶋茂雄です」と名乗って、「君が巨人軍に入ることは非常に嬉しい」と喜んでくださいました。その時の言葉が私の自信となり、巨人軍のユニホームに袖を通すことができました。この出来事は私にとって非常に大きな財産です。-プロ野球界にとっての長嶋茂雄さんとは?多くの偉大な先輩がいる中で、長嶋さんは燦然と輝く野球界の象徴的存在です。私にとっては神様のような存在でした。

【号外をお手元に】長嶋茂雄さん特別版をダウンロードしよう

プロ野球・巨人の元監督であり、巨人軍の終身名誉監督である長嶋茂雄さんが3日に東京の病院で亡くなられました。日刊スポーツは彼の功績を称えるために特別な号外を発行しました。この号外は東京の有楽町、新橋、秋葉原、築地本社前の4つの場所で配布されました。国民的に愛された「ミスタープロ野球」の偉大な歴史を振り返るため、特別紙面をPDF形式でも提供しております。【登録して全文を読む】ボタンをクリックして簡単な登録を行えば、PDFをダウンロードすることができます。 

王貞治会長、長嶋茂雄氏を悼む「日本球史に輝く長嶋さんと共に野球をできたことを感謝」

ソフトバンクの王貞治球団会長(85)は、3日に亡くなった巨人軍の終身名誉監督、長嶋茂雄氏(享年89)を偲び、コメントを発表しました。王会長:「突然の訃報に大変驚いております。長嶋さんは日本の野球史に燦然と輝く存在であり、彼が闘病の末に旅立たれてしまったことは本当に残念でなりません。長嶋さんには数多くのことを教えていただきました。一緒に野球をできたことに本当に感謝しています。心よりご冥福をお祈りいたします。」長嶋氏はプロ野球、読売ジャイアンツの監督を2度にわたり15年間務め、3日午前6時39分に肺炎のため東京都内の病院で他界しました。「ON砲」として知られる長嶋氏と王会長は、巨人の黄金期を築き、1965年から1973年まで日本シリーズ9連覇を成し遂げました。2人が同じ試合でホームランを打ったのは1959年6月25日の天覧試合が最初で、通算106回に及びます。もちろん、これはアベックホームランの最多記録です。連続ホームランの回数は29回、長嶋→王の順番が6回、王→長嶋の順番が23回ありました。昨年の11月30日に行われた「ジャイアンツ・ファンフェスタ 2024」では、巨人軍の歴代OBが集まり、ONの共演も実現しました。王会長は、長嶋氏と再会の握手を交わし、「球団創設90周年の節目に、そのような熱心なファンの皆様の前で、現役選手や巨人に在籍した多くのOBが一堂に会することを、私たち自身が本当に楽しみにしていました。久しぶりの再会を幸せに感じています」と喜びを語っていました。

大谷翔平、故長嶋茂雄氏に捧げる23号ソロ本塁打 129メートルの特大アーチを確信

ロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平投手(30)が「1番DH」としてスタメン出場し、第4打席で6月初となる23号ソロ本塁打を放ちました。7回二死の場面で、右投手クラニックと対戦。初球のカーブを鋭くすくい上げ、右翼席への特大のアーチを描きました。この一打は打った瞬間にホームランを確信できるもので、打球速度は113.9マイル(約184キロ)、飛距離は424フィート(約129メートル)、角度は38度でした。1回の第1打席では右腕ブラックバーンと対戦し、カウント2-2から低めのカーブに対して空振り三振を喫しました。続く第2打席、3回二死の場面ではフルカウントから外角のカーブに対応できず、再び空振り三振となりました。第3打席では5回二死一、二塁の場面で、カウント3-1から外角のチェンジアップを引っかけ、二ゴロに倒れました。試合前、大谷は自身のインスタグラムで、亡くなった巨人軍の終身名誉監督、長嶋茂雄氏(享年89)を悼む投稿を行いました。今年3月の東京開幕シリーズでのツーショット写真と共に「心よりご冥福をお祈りいたします」と綴りました。今季大谷は試合前時点で打率2割9分3厘、22本塁打、37打点、11盗塁を記録。OPSは1.045をマークしています。

「セコム、してますか?」故長嶋茂雄さんと35年の歩み「多大なるご尽力を」今年は大谷翔平との夢対決も

「セコム、してますか?」と言えば、3日に亡くなった巨人軍の終身名誉監督、長嶋茂雄さんを思い出す方も多いでしょう。セコムの広告でおなじみのフレーズです。この日、セコムはX(旧ツイッター)で「セコム広報です。3日、長嶋茂雄さんがご逝去されました。享年89歳でした。長嶋さんには当社のアンバサダーとして1990年から35年間、貢献していただきました。長嶋さんの偉大な功績に心より感謝し、謹んでご冥福をお祈りいたします」と投稿しました。東京ドームにはセコムの看板が掲げられており、多くの人々に親しまれています。同社のホームページでは、過去の広告作品の数々が見られますが、今年はそこに新しい「顔」が加わりました。それはMLBドジャースに所属する大谷翔平選手です。今年3月、セコムは長嶋さんと大谷選手が登場する新しいCMを発表しました。このCMでは、合成映像を用いて、メジャーリーグを代表する大谷選手が投手としてマウンドに立ち、ミスタープロ野球と呼ばれる長嶋さんを打席に迎えるシーンが描かれています。東京ドームの電子看板も、この新CMに合わせて2種類のパターンを用意し、若返ったミスターの姿と大谷バージョンの2つを時間ごとに表示しています。