Month: June 2025

長嶋茂雄さん死去89歳 数々の伝説残したミスタープロ野球/まとめ

プロ野球の巨人の監督を2期15年にわたって務めた巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分、肺炎のため、都内の病院で亡くなった。89歳だった。 長嶋茂雄さん死去 89歳 巨人軍終身名誉監督 04年に脳梗塞で倒れた後、リハビリ努めた 58年に新人王、MVP5度、首位打者6度、本塁打王2度、打点王5度/略歴 記録・語録・軌跡 デビューは4三振、天覧試合で1発、ONアベック、幻の本塁打 57年12月巨人入団、背番号3 59年天覧試合でサヨナラ本塁打… 88年、野球殿堂入り 92年ドラフトで松井秀喜引き当てる… 東京6大学で本塁打新記録、天覧試合でサヨナラ本塁打、通算444本塁打 語録「アメリカの子供は英語がうまいね」「今年、初めて還暦を迎えまして…」 ヘイ!カール、メークドラマ/平成の長嶋茂雄伝説 球界悼む 巨人軍オーナー「志は、後輩たちが確実に受け継いで」 コメント全文 各界悼む プリティ長嶋「我がミスタープロ野球 長嶋茂雄は永久に不滅です!」長嶋茂雄さん悼む 菊間千乃氏「希有なスーパースター」長嶋茂雄さん死去に「本当に遠くから見ても分かる明るさ」 乙武洋匡氏「バリアフリーではない室内練習場で気にかけてくださった」長嶋茂雄さん悼む 長嶋茂雄さん死去 谷原章介生放送で悼む「野球が好きな人ってみんな長嶋さんのことが好き」 巨人ファン小沢仁志「栄光の背番号3 子供の頃からずーっと観てました」長嶋茂雄さん悼む 担当記者悼む 長嶋ジャパンで感じたミスター 律義な人柄、屈託ない笑顔 五輪の指揮が見たかった...

【長嶋茂雄氏の天覧試合復刻】阪神・村山実からのサヨナラ本塁打「この感激は一生忘れません」

長嶋茂雄氏、プロ野球・巨人軍の終身名誉監督として15年間にわたり指揮を執った偉大な人物が、3日午前6時39分に肺炎のため東京都内の病院でお亡くなりになりました。享年89歳。読売新聞グループ本社、読売巨人軍、オフィスエヌにより発表されました。今回は、長嶋氏が活躍した天覧試合の再現です。<1959年6月25日>セ・リーグの第12節3日目で、プロ野球の歴史に残る天覧試合が行われました。天皇皇后両陛下を迎えての巨人-阪神の試合、そして他には宇部で大洋-広島、中日で中日-国鉄の試合が実施されました。注目された巨人-阪神戦では、両チームのエースである藤田・小山投手が登板しました。試合は打撃戦となり、最終的に長嶋氏が村山投手から劇的なサヨナラ13号本塁打を放ち、巨人が勝利をおさめました。中日と大洋もそれぞれ国鉄、広島に快勝しました。★藤本選手と王選手の一進一退★試合の開始に際して、小山投手は長期の休養への不安を払拭するかのようにスローボールで慎重なピッチングを見せました。巨人の攻撃をかわし続ける中、藤田投手も巧みなピッチングを披露しました。しかし3回で一致しなかった小山投手が失点し、巨人がリードを奪いました。長嶋選手の本塁打が巨人に逆転の力を与え、試合はさらに激しくなりました。★エース同士の対決★試合は波乱の幕開けでした。阪神が同点に追いついた後、藤本選手が再び試合を逆転させるも、続く巨人の攻撃で王選手が同点本塁打を放ちます。試合は緊張感を漂わせ、村山投手も登板しましたが、遅れを取る結果となりました。 ★劇的な結末★試合は再び振り出しに戻り、阪神は8回にチャンスを迎えましたが得点を逃します。その後、長嶋氏が土壇場でのサヨナラ本塁打を放ち、試合は幕を閉じました。村山投手の速球を見事にとらえた長嶋選手の一打は、まさに劇的なものでした。両陛下もこの素晴らしい試合展開をご覧になり、興味深く退場されました。◎一生忘れない感動◎長嶋選手はサヨナラ本塁打を打った瞬間、充実した表情で打球の行方を見届けました。彼の一打が観客を魅了し、選手たちと歓喜を分かち合いました。取材陣からの質問に対し、彼は小山投手のシュートを打ち返した瞬間の自信がついたと答えました。長嶋氏は「この感激は一生忘れないでしょう」と述べ、心からの喜びを感じていました。

大谷翔平、3試合ぶりの23号ホームランなるか 長嶋茂雄さん、最後の公の場は大谷との2ショット/速報

ドジャースの大谷翔平選手は「1番DH」として先発出場しています。 巨人の長嶋茂雄終身名誉監督が3日午前6時39分、肺炎のため都内の病院で亡くなりました。享年89歳でした。 長嶋氏が最後に公の場に姿を見せたのは、3月15日に行われた巨人-ドジャースのプレシーズンゲーム(東京ドーム)でのことでした。 チーム123456789計 メ 0 ド 0 大谷翔平 第1打席 ドジャース大谷翔平(2025年4月撮影) 長嶋茂雄終身名誉監督(2015年撮影)

大谷翔平「心よりご冥福をお祈り致します」2ショット写真を投稿して故・長嶋茂雄氏に哀悼の意

ロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平選手(30歳)は、巨人軍の終身名誉監督である長嶋茂雄氏(享年89)の訃報を受けて、インスタグラムで哀悼の意を表しました。 長嶋氏は3日の午前6時39分に肺炎により、東京都内の病院で息を引き取りました。このことは読売新聞グループ本社、読売巨人軍、そしてオフィスエヌの連名で発表されました。 大谷選手は、3月に東京ドームで行われた開幕シリーズの際に撮影した長嶋氏との2ショット写真を公開し、「心よりご冥福をお祈り致します」とコメントを添えています。 長嶋氏の葬儀及び告別式は近親者のみにより執り行われます。後日にお別れの会を催す予定で、日程や会場については追ってお知らせするとしています。 2004年3月4日に、アテネ五輪の日本代表監督時代に脳梗塞で倒れ、右半身に麻痺が残りました。しかし、懸命なリハビリを続け、2007年2月には巨人キャンプを視察するまでに回復しました。2013年には松井秀喜氏と共に国民栄誉賞を受賞。同年5月に東京ドームで行われた授賞式では、始球式でのスイングも披露し、左手一本でバットを振り観衆を沸かせました。 2018年7月には胆石による入院、一時は危険な状態にありましたが、驚異的な生命力で復帰。2021年の東京五輪開会式では、王貞治氏や松井氏と共に聖火ランナーを務め、オリンピックへの夢を叶えました。 2022年9月には転倒により脳内出血で入院、その後も療養を続けていましたが、2023年3月31日の中日との開幕戦や11月23日「ジャイアンツ・ファンフェスタ2023」では東京ドームに姿を見せました。足腰のリハビリで退院はできていない中、ファンフェスタでは阿部慎之助新監督からマイクを託され「来年は絶対に勝とう! 勝つ、勝つ、勝~つ!」と叫び、球場に集まった3万9527人を感動させました。 さらに2024年5月には、東京ドームで行われた球団創設90周年記念特別試合「長嶋茂雄DAY」に、松井氏とともにサプライズで登場しました。それ以外にも東京ドームを訪れ、阿部監督やチームを激励しました。

ヘイ!カール、メークドラマ/平成の長嶋茂雄伝説

プロ野球界で2期15年にわたり読売ジャイアンツの監督を務めたジャイアンツ軍終身名誉監督の長嶋茂雄さんが、3日午前6時39分に肺炎のため都内の病院で亡くなりました。89歳でした。この訃報は、読売新聞グループ本社、読売ジャイアンツ、オフィスエヌが連名で発表しました。 <平成の長嶋茂雄伝説> ◆91年(平成3年) 8月26日 長嶋茂雄さんは世界陸上のリポーターを務め、100メートル走で優勝したカール・ルイスにスタンドから「ヘイ、カール」と声をかけました。その際、犬が好きなルイスに秋田犬の子犬を贈ったことがあり、後に自身が脳梗塞で倒れた際にルイスからメッセージが届きました。 91年、世界陸上で長嶋茂雄さんは「ヘイ!カール」と呼び止めてカール・ルイスと握手 ◆92年(平成4年) 11月12日 長嶋茂雄監督がジャイアンツの監督に復帰し、ドラフト会議で星稜高校出身の松井秀喜をくじ引きで獲得しました。 92年11月12日 ドラフト会議で松井秀喜の交渉権獲得にサムアップポーズを見せる長嶋茂雄監督 ◆93年(平成5年) 2月17日 長嶋監督はフィールドで初めて長男の長嶋一茂選手に打撃指導を行いました。さらに、評論家の張本勲氏と一緒にステップの矯正を手伝いました。 11月21日 FA宣言した槙原選手の自宅を背番号と同じ17本のバラを持って訪問し、残留を決意させました。 93年11月21日、FA宣言した槙原寛己(右)の自宅を訪れた長嶋茂雄監督 ◆94年(平成6年) 10月8日 勝利すると優勝が決まる同率最終戦を前にホテルでのミーティングで「勝つ、勝つ、勝ーつ」と選手たちを鼓舞しました。その結果、槙原、斎藤、桑田という先発投手の柱を巧みに使い勝利しました。 94年10月8日、中日対巨人 リーグ優勝を決め、祝勝会場でのビールかけに笑顔の巨人長嶋茂雄監督 ◆95年(平成7年) 7月23日 「9、10月に必ずメークドラマします。かけてもいいですよ」と豪語し、試合では非常に強気な表情で審判に抗議しました。同年は3位で終わりました。 ◆96年(平成8年) 2月2日 長嶋監督が宮崎キャンプ中に60歳の誕生日を迎え、「今年初めて還暦を迎えまして…」と語り、選手のアップに飛び入り参加し、30メートルのダッシュを繰り返しました。 96年2月 巨人春季キャンプ 還暦を迎え赤いちゃんちゃんこを着た長嶋茂雄監督...

長嶋茂雄さんの名言録「アメリカの子供は英語が上手いね」「今年、初めて還暦を迎えまして…」

プロ野球界の伝説的存在で、巨人軍で終身名誉監督を務めた長嶋茂雄さんが、3日午前6時39分に肺炎のため、東京都内の病院で亡くなりました。享年89歳でした。読売新聞グループ本社、読売巨人軍、オフィスエヌが連名で報告しました。 <長嶋茂雄さんの思い出の言葉を振り返る> ◆1957年11月3日(立教大学時代、慶應義塾大学戦で新記録の8号本塁打を達成して)「最後のチャンスを生かせました。振り返ってみると、自分は幸運だったと思います」 ◆57年11月5日(プロ入り前に)「卒業したら巨人に入りたいです。伝統に輝く巨人に憧れています」 ◆58年4月5日(デビュー戦で国鉄スワローズの金田正一投手に4打席連続三振を喫して)「ご覧の通り、今日は全くダメでした」 ◆60年10月(政治への関心について尋ねられ)「(新聞の)政治面は一応目を通しますが、世の中が騒がしくなってから読み始めただけです。スポーツマンは保守的ですから、社会党が政権を取ったら野球どころではなくなるかもしれません」 ◆61年3月(米国ベロビーチキャンプで)「アメリカの子供は英語が上手いね」 ◆63年10月6日(打率トップを5毛差で維持し)「『毛』の争いなら任せてください。何しろ僕は胸毛に自信があるので」 ◆64年11月26日(亜希子夫人との婚約会見で)「初めて会った時から好きになりました。恋が何かは分からなかったが、ようやく気持ちが分かりました」 ◆73年10月9日(監督を川上哲治監督から打診されて)「選手として燃え尽きるまでやるのが自分の務めです。体力の続く限りバットを持ちたいです」 ◆74年10月12日(引退を決意して)「小さな白球との長い戦いが終わったことを悟りました」 ◆74年10月14日(後楽園球場での引退セレモニーで)「今日はここで引退しますが、巨人軍は永遠に不滅です」 ◆74年11月1日(巨人監督に就任し背番号も90に)「息子の一茂が3番、三塁、背番号3だったので、全部足して9、さらに0をつけて90が良いと言うのです」 ◆74年11月21日(監督就任会見で)「来年はクリーンベースボールのスローガンで行きます」 ◆75年4月8日(広島戦で監督初勝利)「現役時代のホームランより嬉しいです。監督冥利に尽きます」 ◆76年8月17日(広島戦で監督100勝)「今日の勝利は大きい。これでチームの流れが変わります」 ◆76年10月16日(初優勝の祝賀会で)「まるで宙に舞うような気分でした」 ◆80年10月21日(巨人監督解任会見で)「フロント入りを打診されましたが、受け入れられません。しばらくは自分自身の見つめ直しと反省、そしてこれからの人生を考えたいです」 ◆91年8月26日(浪人期間中に世界陸上をリポートし、カール・ルイスについて)「新幹線が通過するかのようでした」 ◆92年10月12日(2度目の監督就任会見で)「これまでの環境から見れば大変な戦いの場に入るわけです。巨人再建に心血を注ごうという結論に至りました」...

【長嶋茂雄氏の記録メモ】デビューは4三振、天覧試合で1発、ONアベック、幻の本塁打

ミスタープロ野球、長嶋茂雄巨人終身名誉監督が3日午前6時39分、肺炎のため都内の病院で死去した。89歳だった。長嶋茂雄氏の記録メモ◆デビューは4三振 58年4月5日国鉄戦(後楽園)でデビュー。金田投手と4打席対戦し、バットに当たったファウルが1球あっただけの4打席4三振。デビュー戦は抑えられたが、対金田の通算成績は打率3割1分3厘で18本塁打。金田からの1発は村山(阪神)の21本に次いで2番目に多かった。◆4番で1460試合出場 1年目の58年8月6日広島戦(広島)で初めて4番に座り、いきなり本塁打をマークした。2186試合のうち4番で1460試合に出場。巨人では川上の1658試合に次いで4番出場が多く、現役最後の74年10月14日中日戦(後楽園)も4番で出場。◆1年目に2冠 1年目の58年に本塁打と打点のタイトルを獲得。新人の本塁打王は4人いるが、新人の打点王は長嶋氏だけ。新人で2冠も長嶋氏しかいない。打率が田宮(阪神)に次ぐ2位で、惜しくも新人3冠王を逃す。◆天覧試合で1発 プロ野球初の天覧試合となった59年6月25日阪神戦(後楽園)で村山からサヨナラ本塁打。昭和天皇、皇后両陛下がご覧になった66年日米野球(全日本-ドジャース戦)でも1発を放ち、皇室がご観戦になられた試合で打率5割1分4厘、7本塁打の猛打。◆首位打者6回 2年目の59年から3年連続で記録するなど、首位打者を6回獲得。張本(東映、日本ハム)イチロー(オリックス)の7回に次ぐ記録で、セ・リーグでは最多。◆打率3割は11回 打率3割以上が歴代5位タイの11回(最多は張本の16回)。新人から4年連続で記録したが、入団4年連続3割は長嶋氏だけ。◆3舞台で3割 大舞台に強く、オールスター通算打率が3割1分3厘で日本シリーズ通算は3割4分3厘。日本シリーズのMVP4回は最多記録だ。公式戦(4000打数以上)オールスター、日本シリーズの3舞台すべて打率3割は鈴木尚(横浜)と2人だけ。◆最多安打は10回 リーグ最多安打10回はプロ野球記録。通算2471安打(歴代7位)は大学出身選手としては最多で、1708試合での2000安打到達は川上(巨人)の1646試合に次ぐ2番目のスピード記録。◆幻の本塁打 プロ1年目の58年9月19日広島戦(後楽園)で一塁ベースを踏み損ねて本塁打を取り消されるプロ野球初の珍事(記録は投ゴロ)。58年は打率3割5厘、29本塁打、37盗塁だから、きっちりベースを踏んでいれば新人で「3割・30本塁打・30盗塁」を達成していた。◆開幕戦本塁打は10本 70~74年に5年連続で開幕戦に本塁打。開幕戦アーチ通算10本は、門田(ダイエー)の9本を抑えて最多。◆ONアベックは106回 王と同一試合でそろって本塁打したのは59年6月25日の天覧試合が最初で、通算106回を記録。もちろん、アベック本塁打の最多記録だ。2人の連続本塁打は29回あるが、長嶋→王が6回に対し王→長嶋は23回。「燃える男」らしく王に負けじと1発を打つケースが多かった。◆悪球打ち 敬遠球に飛びついて打つこともしばしば。60年7月16日大洋戦(川崎)では権藤投手の敬遠球を大根切りで二塁打、64年4月18日大洋戦(下関)でも悪球に飛びつき三塁内野安打にしている。長嶋茂雄さん死去89歳 数々の伝説残したミスタープロ野球/まとめ>>

【巨人】長嶋茂雄終身名誉監督の死去を受け、桑田2軍監督や長野らが練習前に黙とうを捧げる

日本プロ野球界で輝く存在であった巨人の終身名誉監督、長嶋茂雄さん(享年89)が、3日の午前6時39分、肺炎のため東京都内の病院で逝去されました。長嶋さんは15年間にわたり2期に渡って巨人の監督を務め、数々の名シーンを名残しました。雨のため川崎市のジャイアンツ球場内の練習施設で行われた練習では、巨人2軍監督の桑田真澄さん(57)や外野手の長野久義さん(40)らが、開始前に長嶋さんを偲び黙とうを捧げました。

【解説】元白鵬の引退と退職劇の裏にある2つの主要な理由と協会の見解の相違

歴代最多45回の優勝を誇る元横綱・白鵬(現宮城野親方、40歳)が日本相撲協会を退職することが正式に決定しました。日本相撲協会は2日に臨時理事会を東京・両国国技館で開催し、宮城野親方が9日付で退職すると発表しました。宮城野親方の以前の部屋である旧宮城野部屋では、昨年度に元前頭・北青鵬による暴力事件が発覚し、これにより監督責任を問われて2階級降格の処分を受け、部屋は閉鎖。昨年4月に伊勢ケ浜部屋に移籍しました。部屋再興の兆しが見えず、さらに協会の公式発表とも食い違う形で退職が決まりました。    ◇   ◇   ◇ 旧宮城野部屋の閉鎖と伊勢ケ浜部屋への移籍以降、宮城野親方は心機一転しました。伊勢ケ浜親方(元横綱旭富士)の助言に従い、日本全国で弟子の実家を訪れて謝罪し、部屋付きの楯山親方(元幕内誉富士)には敬語を使い、来客があれば自ら動いていました。彼の姿勢を近くで見てきた間垣親方(元幕内石浦)は「尊敬の念が増しました。涙が出ることもありました」と話しています。この1年間の努力について尋ねられた宮城野親方は、「それが私の人間性なんです。でも、上層部には理解されない」と苦笑し、「痛みは本人にしか分からない。成長はしました」と述べました。宮城野親方が退職に至ったのは、協会と本人の双方に原因があります。宮城野部屋の閉鎖期間を明確にしなかったのは、協会幹部によれば「期間を決めると宮城野親方が反省しないから」とのことでした。しかし、1年ほど経った頃には、再興が認められるのではないかという期待が高まりました。伊勢ケ浜親方が7月初旬に定年を迎えるため、最終の本場所である5月の夏場所後が再興のタイミングと見られていたのです。伊勢ケ浜一門は初場所後から、宮城野部屋の再興を理事会で議題に上げてほしいと頼んでいましたが、実質的な議論には至りませんでした。宮城野親方が退職の意志を固めた理由として、<1>協会が再興時期を決めてくれないこと、<2>後輩の照ノ富士親方(元横綱)の指導下に入ることをプライドが許さないこと、の2点が挙げられます。3月27日の理事会でも議題に上がらず、彼の心は退職に傾きました。協会の発表では、「今後は浅香山部屋で預かる」「解除を十一月場所後とすることを検討」とされていますが、宮城野親方は既に決心を変えませんでした。この発表に関し、宮城野親方に近い関係者は「全く違う」と強調しました。ある元力士は「ハメられたのでは?怖い」と話しています。宮城野親方は9日に会見を開く予定ですが、協会の見解よりも次のステップに目を向けているようです。協会が再興時期の提案をもっと早くできなかったのか。宮城野親方も、もう少し耐えることができなかったのか。この処分は、現役時代からの言動も大きく影響していると考えられます。協会にとっても大きな損失です。有名で実績豊かな横綱と共存できないことへの損失感は否めません。チケットは売れ続けるかもしれませんが、この決定により大横綱を活かしきれなかった事実は、永遠に消えることはありません。【佐々木一郎】

退職した宮城野親方、今後「白鵬翔」として活動へ 新たな相撲団体の設立や国際的な展開を視野に

大相撲で歴代最多の45回優勝を誇る元横綱白鵬の宮城野親方(40)が、日本相撲協会を退職することが正式に決まりました。2日、協会は東京・両国国技館で臨時理事会を開催し、宮城野親方が9日付で協会を退職することを発表しました。昨年、宮城野親方が率いる旧宮城野部屋で弟子の被害事件が発覚し、その監督責任が問われた結果、部屋の閉鎖や降格処分を受け、師弟ともに伊勢ケ浜部屋へと移籍していました。新たな道が見出せず退職を決意しましたが、協会からの公式発表とは意見の相違があり、後味の悪い結末となりました。    ◇   ◇   ◇ 宮城野親方の退職後の活動はどうなるのでしょうか。親方としての役職を離れるため、今後は本名の「白鵬翔」を用いて活動していくことになります。これまでの功績や知名度を考慮すれば、生活には困らないでしょうし、多くの後援者も存在しています。朝青龍や日馬富士のように、ビジネスでの成功も期待されています。具体的な活動プランとして、日本国内の子供たちを対象にした相撲大会「白鵬杯」の規模拡大があります。協会から離れることで、会場使用料などの貸与条件が厳しくなると予想されますが、それでも大会のさらなる発展を目指しているそうです。将来的には、相撲の新たな団体設立の構想もあります。まずはアマチュア相撲の組織作りに着手し、その後世界規模の団体へと成長させる計画です。これが実現すれば、かつての宮城野部屋の力士たちが新たな舞台で活躍する可能性もあります。宮城野親方はプロの相撲界からは離れますが、何らかの形で相撲との関わりを続ける希望を持ち続けています。