プロ野球の巨人軍で監督を2期15年間にわたり務めた長嶋茂雄さんが、肺炎により3日午前6時39分に都内の病院で亡くなりました。享年89歳でした。
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巨人軍のキャップ担当時代、長嶋監督の進退についての記事を書きました。96年にメークドラマの勝利を収めたものの、97年にはBクラスに沈み、98年の契約最終年も不調が続きました。国民的ヒーローである長嶋監督について書くことには大きなプレッシャーがありました。その夏は息苦しいものでした。
ある日の7月31日、阪神戦でガルベス選手の不始末があり、彼は出場停止となりました。監督は丸刈りになって謝罪しましたが、チームの不調は続きました。そして1カ月後、「長嶋監督辞意」という記事を1面に掲載しました。
その日の朝、自宅近くでランニング中の監督に出会いました。心臓が張り裂けそうでしたが、驚いたことに監督は笑顔を浮かべていました。「新聞買いましたよ、えっへっへ。家でじっくり読みますよ」。彼の澄んだ瞳が今でも忘れられません。
その頃、読売新聞社はすでに次期監督候補との交渉を終えていました。しかし、長嶋監督はそのプロセスから外されたことに怒りを覚え、最終的には辞任を撤回しました。世論も疑念を抱き、渡辺オーナーは事態の収束を図り監督続投を決定しました。
結果的に誤報となり、どう責任を取るべきか悩んだ末、監督に時間をいただきました。険しい表情の彼に「こちらへおいで」と呼ばれ、ヤクルト戦の試合前、神宮球場の三塁ベース付近で会いました。
「私は野球については何を書かれても構わない。野球以外のことやプライベートなら怒るけどね。だから(辞任の)記事はもう過ぎた話です。なんのわだかまりもないですよ。だって田さんだって書くのが仕事でしょ」。私の目に涙が浮かびそうになりました。記者としてよりも、人として救われた気持ちになりました。その時、三塁側内野席から巨人ファンが声をかけてきました。「ナガシマさ~ん!」。監督は右腕を上げ、歓声に応えました。彼がかつてサードポジションからスタンドを見るのが好きだと聞いたことがあります。そして私も見上げてみました。この光景が…。ファンからも、野球そのものからも、愛され続けてきた「長嶋茂雄」がそこにいました。【97、98年巨人キャップ=田誠】