Day: June 3, 2025

長嶋茂雄さんの名言録「アメリカの子供は英語が上手いね」「今年、初めて還暦を迎えまして…」

プロ野球界の伝説的存在で、巨人軍で終身名誉監督を務めた長嶋茂雄さんが、3日午前6時39分に肺炎のため、東京都内の病院で亡くなりました。享年89歳でした。読売新聞グループ本社、読売巨人軍、オフィスエヌが連名で報告しました。 <長嶋茂雄さんの思い出の言葉を振り返る> ◆1957年11月3日(立教大学時代、慶應義塾大学戦で新記録の8号本塁打を達成して)「最後のチャンスを生かせました。振り返ってみると、自分は幸運だったと思います」 ◆57年11月5日(プロ入り前に)「卒業したら巨人に入りたいです。伝統に輝く巨人に憧れています」 ◆58年4月5日(デビュー戦で国鉄スワローズの金田正一投手に4打席連続三振を喫して)「ご覧の通り、今日は全くダメでした」 ◆60年10月(政治への関心について尋ねられ)「(新聞の)政治面は一応目を通しますが、世の中が騒がしくなってから読み始めただけです。スポーツマンは保守的ですから、社会党が政権を取ったら野球どころではなくなるかもしれません」 ◆61年3月(米国ベロビーチキャンプで)「アメリカの子供は英語が上手いね」 ◆63年10月6日(打率トップを5毛差で維持し)「『毛』の争いなら任せてください。何しろ僕は胸毛に自信があるので」 ◆64年11月26日(亜希子夫人との婚約会見で)「初めて会った時から好きになりました。恋が何かは分からなかったが、ようやく気持ちが分かりました」 ◆73年10月9日(監督を川上哲治監督から打診されて)「選手として燃え尽きるまでやるのが自分の務めです。体力の続く限りバットを持ちたいです」 ◆74年10月12日(引退を決意して)「小さな白球との長い戦いが終わったことを悟りました」 ◆74年10月14日(後楽園球場での引退セレモニーで)「今日はここで引退しますが、巨人軍は永遠に不滅です」 ◆74年11月1日(巨人監督に就任し背番号も90に)「息子の一茂が3番、三塁、背番号3だったので、全部足して9、さらに0をつけて90が良いと言うのです」 ◆74年11月21日(監督就任会見で)「来年はクリーンベースボールのスローガンで行きます」 ◆75年4月8日(広島戦で監督初勝利)「現役時代のホームランより嬉しいです。監督冥利に尽きます」 ◆76年8月17日(広島戦で監督100勝)「今日の勝利は大きい。これでチームの流れが変わります」 ◆76年10月16日(初優勝の祝賀会で)「まるで宙に舞うような気分でした」 ◆80年10月21日(巨人監督解任会見で)「フロント入りを打診されましたが、受け入れられません。しばらくは自分自身の見つめ直しと反省、そしてこれからの人生を考えたいです」 ◆91年8月26日(浪人期間中に世界陸上をリポートし、カール・ルイスについて)「新幹線が通過するかのようでした」 ◆92年10月12日(2度目の監督就任会見で)「これまでの環境から見れば大変な戦いの場に入るわけです。巨人再建に心血を注ごうという結論に至りました」...

【長嶋茂雄氏の記録メモ】デビューは4三振、天覧試合で1発、ONアベック、幻の本塁打

ミスタープロ野球、長嶋茂雄巨人終身名誉監督が3日午前6時39分、肺炎のため都内の病院で死去した。89歳だった。長嶋茂雄氏の記録メモ◆デビューは4三振 58年4月5日国鉄戦(後楽園)でデビュー。金田投手と4打席対戦し、バットに当たったファウルが1球あっただけの4打席4三振。デビュー戦は抑えられたが、対金田の通算成績は打率3割1分3厘で18本塁打。金田からの1発は村山(阪神)の21本に次いで2番目に多かった。◆4番で1460試合出場 1年目の58年8月6日広島戦(広島)で初めて4番に座り、いきなり本塁打をマークした。2186試合のうち4番で1460試合に出場。巨人では川上の1658試合に次いで4番出場が多く、現役最後の74年10月14日中日戦(後楽園)も4番で出場。◆1年目に2冠 1年目の58年に本塁打と打点のタイトルを獲得。新人の本塁打王は4人いるが、新人の打点王は長嶋氏だけ。新人で2冠も長嶋氏しかいない。打率が田宮(阪神)に次ぐ2位で、惜しくも新人3冠王を逃す。◆天覧試合で1発 プロ野球初の天覧試合となった59年6月25日阪神戦(後楽園)で村山からサヨナラ本塁打。昭和天皇、皇后両陛下がご覧になった66年日米野球(全日本-ドジャース戦)でも1発を放ち、皇室がご観戦になられた試合で打率5割1分4厘、7本塁打の猛打。◆首位打者6回 2年目の59年から3年連続で記録するなど、首位打者を6回獲得。張本(東映、日本ハム)イチロー(オリックス)の7回に次ぐ記録で、セ・リーグでは最多。◆打率3割は11回 打率3割以上が歴代5位タイの11回(最多は張本の16回)。新人から4年連続で記録したが、入団4年連続3割は長嶋氏だけ。◆3舞台で3割 大舞台に強く、オールスター通算打率が3割1分3厘で日本シリーズ通算は3割4分3厘。日本シリーズのMVP4回は最多記録だ。公式戦(4000打数以上)オールスター、日本シリーズの3舞台すべて打率3割は鈴木尚(横浜)と2人だけ。◆最多安打は10回 リーグ最多安打10回はプロ野球記録。通算2471安打(歴代7位)は大学出身選手としては最多で、1708試合での2000安打到達は川上(巨人)の1646試合に次ぐ2番目のスピード記録。◆幻の本塁打 プロ1年目の58年9月19日広島戦(後楽園)で一塁ベースを踏み損ねて本塁打を取り消されるプロ野球初の珍事(記録は投ゴロ)。58年は打率3割5厘、29本塁打、37盗塁だから、きっちりベースを踏んでいれば新人で「3割・30本塁打・30盗塁」を達成していた。◆開幕戦本塁打は10本 70~74年に5年連続で開幕戦に本塁打。開幕戦アーチ通算10本は、門田(ダイエー)の9本を抑えて最多。◆ONアベックは106回 王と同一試合でそろって本塁打したのは59年6月25日の天覧試合が最初で、通算106回を記録。もちろん、アベック本塁打の最多記録だ。2人の連続本塁打は29回あるが、長嶋→王が6回に対し王→長嶋は23回。「燃える男」らしく王に負けじと1発を打つケースが多かった。◆悪球打ち 敬遠球に飛びついて打つこともしばしば。60年7月16日大洋戦(川崎)では権藤投手の敬遠球を大根切りで二塁打、64年4月18日大洋戦(下関)でも悪球に飛びつき三塁内野安打にしている。長嶋茂雄さん死去89歳 数々の伝説残したミスタープロ野球/まとめ>>

【巨人】長嶋茂雄終身名誉監督の死去を受け、桑田2軍監督や長野らが練習前に黙とうを捧げる

日本プロ野球界で輝く存在であった巨人の終身名誉監督、長嶋茂雄さん(享年89)が、3日の午前6時39分、肺炎のため東京都内の病院で逝去されました。長嶋さんは15年間にわたり2期に渡って巨人の監督を務め、数々の名シーンを名残しました。雨のため川崎市のジャイアンツ球場内の練習施設で行われた練習では、巨人2軍監督の桑田真澄さん(57)や外野手の長野久義さん(40)らが、開始前に長嶋さんを偲び黙とうを捧げました。

【解説】元白鵬の引退と退職劇の裏にある2つの主要な理由と協会の見解の相違

歴代最多45回の優勝を誇る元横綱・白鵬(現宮城野親方、40歳)が日本相撲協会を退職することが正式に決定しました。日本相撲協会は2日に臨時理事会を東京・両国国技館で開催し、宮城野親方が9日付で退職すると発表しました。宮城野親方の以前の部屋である旧宮城野部屋では、昨年度に元前頭・北青鵬による暴力事件が発覚し、これにより監督責任を問われて2階級降格の処分を受け、部屋は閉鎖。昨年4月に伊勢ケ浜部屋に移籍しました。部屋再興の兆しが見えず、さらに協会の公式発表とも食い違う形で退職が決まりました。    ◇   ◇   ◇ 旧宮城野部屋の閉鎖と伊勢ケ浜部屋への移籍以降、宮城野親方は心機一転しました。伊勢ケ浜親方(元横綱旭富士)の助言に従い、日本全国で弟子の実家を訪れて謝罪し、部屋付きの楯山親方(元幕内誉富士)には敬語を使い、来客があれば自ら動いていました。彼の姿勢を近くで見てきた間垣親方(元幕内石浦)は「尊敬の念が増しました。涙が出ることもありました」と話しています。この1年間の努力について尋ねられた宮城野親方は、「それが私の人間性なんです。でも、上層部には理解されない」と苦笑し、「痛みは本人にしか分からない。成長はしました」と述べました。宮城野親方が退職に至ったのは、協会と本人の双方に原因があります。宮城野部屋の閉鎖期間を明確にしなかったのは、協会幹部によれば「期間を決めると宮城野親方が反省しないから」とのことでした。しかし、1年ほど経った頃には、再興が認められるのではないかという期待が高まりました。伊勢ケ浜親方が7月初旬に定年を迎えるため、最終の本場所である5月の夏場所後が再興のタイミングと見られていたのです。伊勢ケ浜一門は初場所後から、宮城野部屋の再興を理事会で議題に上げてほしいと頼んでいましたが、実質的な議論には至りませんでした。宮城野親方が退職の意志を固めた理由として、<1>協会が再興時期を決めてくれないこと、<2>後輩の照ノ富士親方(元横綱)の指導下に入ることをプライドが許さないこと、の2点が挙げられます。3月27日の理事会でも議題に上がらず、彼の心は退職に傾きました。協会の発表では、「今後は浅香山部屋で預かる」「解除を十一月場所後とすることを検討」とされていますが、宮城野親方は既に決心を変えませんでした。この発表に関し、宮城野親方に近い関係者は「全く違う」と強調しました。ある元力士は「ハメられたのでは?怖い」と話しています。宮城野親方は9日に会見を開く予定ですが、協会の見解よりも次のステップに目を向けているようです。協会が再興時期の提案をもっと早くできなかったのか。宮城野親方も、もう少し耐えることができなかったのか。この処分は、現役時代からの言動も大きく影響していると考えられます。協会にとっても大きな損失です。有名で実績豊かな横綱と共存できないことへの損失感は否めません。チケットは売れ続けるかもしれませんが、この決定により大横綱を活かしきれなかった事実は、永遠に消えることはありません。【佐々木一郎】

退職した宮城野親方、今後「白鵬翔」として活動へ 新たな相撲団体の設立や国際的な展開を視野に

大相撲で歴代最多の45回優勝を誇る元横綱白鵬の宮城野親方(40)が、日本相撲協会を退職することが正式に決まりました。2日、協会は東京・両国国技館で臨時理事会を開催し、宮城野親方が9日付で協会を退職することを発表しました。昨年、宮城野親方が率いる旧宮城野部屋で弟子の被害事件が発覚し、その監督責任が問われた結果、部屋の閉鎖や降格処分を受け、師弟ともに伊勢ケ浜部屋へと移籍していました。新たな道が見出せず退職を決意しましたが、協会からの公式発表とは意見の相違があり、後味の悪い結末となりました。    ◇   ◇   ◇ 宮城野親方の退職後の活動はどうなるのでしょうか。親方としての役職を離れるため、今後は本名の「白鵬翔」を用いて活動していくことになります。これまでの功績や知名度を考慮すれば、生活には困らないでしょうし、多くの後援者も存在しています。朝青龍や日馬富士のように、ビジネスでの成功も期待されています。具体的な活動プランとして、日本国内の子供たちを対象にした相撲大会「白鵬杯」の規模拡大があります。協会から離れることで、会場使用料などの貸与条件が厳しくなると予想されますが、それでも大会のさらなる発展を目指しているそうです。将来的には、相撲の新たな団体設立の構想もあります。まずはアマチュア相撲の組織作りに着手し、その後世界規模の団体へと成長させる計画です。これが実現すれば、かつての宮城野部屋の力士たちが新たな舞台で活躍する可能性もあります。宮城野親方はプロの相撲界からは離れますが、何らかの形で相撲との関わりを続ける希望を持ち続けています。

楽天がメジャーで20年本塁打王、元ヤンキースのルーク・ボイトを獲得 通算95本塁打の強打者

楽天イーグルスが、2020年にメジャーで本塁打王を獲得した元ヤンキースのルーク・ボイト内野手(34)を獲得するとの情報が2日、大リーグ関係者の取材で明らかになりました。ボイトはメジャーで通算95本の本塁打を記録している右打者で、近日中に契約が基本合意に至る見通しです。「日本生命セ・パ交流戦」が3日から始まるタイミングで、楽天イーグルスが反攻の準備を進めています。シーズン開幕から得点力不足に悩まされてきた楽天が、メジャー経験のある長距離打者に目を向けました。ルーク・ボイトはヤンキースで2019年に21本塁打を打ち、2020年にはコロナ禍で短縮されたシーズンにもかかわらず56試合で22本塁打を記録し、アメリカンリーグの本塁打王に輝いた実力派。楽天の打線の中心として大いに期待されています。チームは現在23勝26敗1分で5位という位置にあります。本拠地でのDeNA戦から交流戦がスタートします。前年の交流戦で初の優勝を支えた辰己、小郷といった主力選手の不調もあり、得点数はリーグ5位と低迷しています。本塁打数も12球団中最低の19本となっており、チームの主力である浅村が4本、今季で3年目を迎えるフランコが2本と、長打力の不足が顕著です。5月には新たな中軸として、マイナー通算105本塁打を記録した前パドレスのオスカー・ゴンザレス外野手(27)を獲得したばかりですが、更なる補強を行い、新しい助っ人を迎え入れることに。これで支配下選手は上限の70人に達しました。新たな強打者の加入により、チームの打撃力は確実に強化されます。交流戦は18試合と短いですが、チームの好調不調で順位が大きく変動する可能性があります。課題を克服し、順位を巻き返す狙いがあります。◆ルーク・ボイト略歴:1991年2月13日生まれ、アメリカ・ミズーリ州出身。ミズーリ州立大学から2013年のドラフト22巡目でカージナルスに入団し、2017年にメジャーデビュー。2018年7月にトレードでヤンキースに移籍。2020年にはコロナ禍で短縮シーズンとなる中、56試合で22本塁打を打ち、アメリカンリーグの本塁打王に輝きました。2022年はパドレスとナショナルズ、2023年はブルワーズでプレー。メジャー通算95本塁打。守備は一塁手。2024年からはメキシコリーグに所属し、マイナー通算623試合で88本塁打。メキシコリーグでは2024年に81試合で23本塁打を記録し、今季は36試合で11本塁打を打っています。身長188センチ、体重117キロ。右投げ右打ち。