Day: June 3, 2025

「セコム、してますか?」故長嶋茂雄さんと35年の歩み「多大なるご尽力を」今年は大谷翔平との夢対決も

「セコム、してますか?」と言えば、3日に亡くなった巨人軍の終身名誉監督、長嶋茂雄さんを思い出す方も多いでしょう。セコムの広告でおなじみのフレーズです。この日、セコムはX(旧ツイッター)で「セコム広報です。3日、長嶋茂雄さんがご逝去されました。享年89歳でした。長嶋さんには当社のアンバサダーとして1990年から35年間、貢献していただきました。長嶋さんの偉大な功績に心より感謝し、謹んでご冥福をお祈りいたします」と投稿しました。東京ドームにはセコムの看板が掲げられており、多くの人々に親しまれています。同社のホームページでは、過去の広告作品の数々が見られますが、今年はそこに新しい「顔」が加わりました。それはMLBドジャースに所属する大谷翔平選手です。今年3月、セコムは長嶋さんと大谷選手が登場する新しいCMを発表しました。このCMでは、合成映像を用いて、メジャーリーグを代表する大谷選手が投手としてマウンドに立ち、ミスタープロ野球と呼ばれる長嶋さんを打席に迎えるシーンが描かれています。東京ドームの電子看板も、この新CMに合わせて2種類のパターンを用意し、若返ったミスターの姿と大谷バージョンの2つを時間ごとに表示しています。

「こちらにいらっしゃい」長嶋茂雄監督が苦悩する記者に掛けた一言とは 担当記者を悼む

巨人キャップ時代、私は長嶋茂雄監督の進退についての記事を書きました。96年には「メークドラマ」で歓喜を味わいましたが、97年にはBクラスとなり、98年の契約最終年もチームの調子は低迷していました。そんな中、国民的ヒーローである長嶋監督の記事を書く重圧は計り知れないものでした。暑い夏の幕開けです。 7月31日に行われた阪神戦で、ガルベス投手が暴挙を起こし、出場停止となりました。長嶋監督は丸刈りになって謝罪しましたが、チームは不調を続けました。そして1か月後、「長嶋監督が辞意を表明」と一面で報じました。 その記事が出た日の朝、自宅近くでランニング中の監督に偶然出会いました。私は内心、心臓が張り裂けそうでしたが、監督は驚くことに笑顔を浮かべていました。「新聞を買いましたよ、えっへっへ。家でじっくり読みますからね」とおっしゃった監督の清らかで澄んだ目は今でも忘れられません。 その頃、読売新聞本社は次期監督候補との交渉を終えていました。しかし、長嶋監督は後任の選定に関与できなかったことに怒り、最終的には辞任を撤回しました。世論も「また読売が解任するのか」というムードに包まれ、渡辺オーナーもこれに応じて急転直下で続投が決まりました。 結果として、記事は誤報でした。どう責任を取るべきか悩んだ末、監督に時間をいただくことにしました。厳しい表情で「こちらにいらっしゃい」と呼ばれたのは、ヤクルト戦の試合前、神宮球場の三塁ベース付近でした。 「私はね、野球についてはどんなことを書かれても気にしません。野球以外やプライベートについては怒ることもありますけどね。だから(辞任の記事は)終わったこと。何のわだかまりもありませんよ。だって田さんだって書くのが仕事でしょう」。不覚にも、涙が出そうになりました。記事を書いた者として、そして人間として救われる思いでした。その時、三塁側の観客席から「ナガシマさ~ん!」というファンの声が上がりました。監督は毛むくじゃらの右腕を上げ、その声援に応えました。「サードの守備位置から観客席を見上げるのが好きだった」という話を聞いたことがあります。私もその時、同じ方向を見上げてみました。この光景か…。長嶋茂雄は、ファンに、そして野球に愛され続けてきたのだと実感しました。【97、98年巨人キャップ・田 誠】

上原浩治氏、Legendaryな長嶋茂雄氏への哀悼「心に残る多くの思い出があり、思い返すと胸がいっぱいになります」

巨人軍の終身名誉監督である長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分に肺炎のため都内の病院で逝去しました。享年89歳でした。 上原浩治氏(50歳)にとって、長嶋さんは1999年に巨人に入団した際の監督であり、プロとしての第一歩を共に踏み出した存在です。以下にコメントを紹介します。 突然の訃報に接し、言葉を失っております。 ドラフト、プロ入り初年度、ジャイアンツ時代、そしてオリンピック…。その全てにおいて長嶋さんとの多くの思い出があり、それを思い返すと胸がいっぱいになります。 東京ドームでお会いするたびに、長嶋さんの笑顔とお言葉から元気をいただいていました。 プロの世界に入ってから、数え切れないほどのご指導をいただき、心より感謝しております。 長嶋監督のご冥福を、心からお祈り申し上げます。

桑田真澄氏が語る長嶋茂雄監督の「10・8」信条:「ファンの皆さんのために」

巨人2軍監督の桑田真澄氏(57)は、3日に逝去した長嶋茂雄終身名誉監督との思い出を振り返った。練習が行われた川崎市内のジャイアンツ球場で取材陣に応じ、「思い出の『10・8』もそうですが、困難な時こそ楽しむことを学びました。『ファンの皆さんのためにやろうじゃないか』というお言葉がよく思い出されます」と語り、選手時代に栄光を共にした指揮官の姿を振り返った。「10・8」とは1994年10月8日、中日との史上初の同率首位決戦で6-3で勝利し、セ・リーグ制覇を成し遂げた日です。「国民的行事」として位置付けた長嶋監督を5度胴上げしました。「『しびれるところで行こう』と監督が言われたので、『監督、試合自体がしびれるのですが、いつ準備すればいいですか』と尋ねると、『しびれる場面で』とお答えになる。試合序盤で、『監督、どのイニングで』と尋ねても『しびれるところで』と懐かしんでいます。その試合前には名古屋のホテルに呼ばれて、直接伝えられたと言います。現在、桑田氏自身が監督という立場になり、「2軍の首脳陣、スタッフ、選手たちにはプロとして結果を残すこと、ファンサービス、メディア対応、さらにスポンサー対応もプロとして当然の務めであると伝えています。これは長嶋さんから学んだことで、僕も若い選手に教えています」と語り、偉大な師の教えを後輩たちに受け継いでいます。

長嶋茂雄さん死去 89歳 巨人軍終身名誉監督としての輝かしいキャリア

巨人軍の監督を2期にわたり15年間務めた長嶋茂雄さんが、3日午前6時39分に肺炎のため、東京都内の病院で息を引き取りました。89歳でした。彼の死去は、読売新聞グループ本社、読売巨人軍、オフィスエヌからの連名で発表されました。 葬儀および告別式は近親者のみで執り行われますが、後日お別れの会を予定しており、日程や会場は決まり次第公表される予定です。 2004年、長嶋さんはアテネ五輪の日本代表監督在任中に脳梗塞で倒れ、右半身に後遺症が残りました。しかし、懸命にリハビリを続け、2007年2月には巨人キャンプを訪問できるほどに回復しました。同年、松井秀喜さんと共に国民栄誉賞を受賞し、東京ドームでの授賞式では始球式において左手だけでスイングし、観衆を沸かせました。 2018年7月には胆石で入院し、一時は黄疸の症状も見られました。しかし、再び回復し、2021年の東京五輪開会式では聖火ランナーを務めました。22年9月には転倒による脳内出血で入院し、その後も療養を続けました。それにもかかわらず、2023年には東京ドームでのイベントに姿を現し、ファンや新監督の阿部慎之助さんを励ましました。 24年5月3日には東京ドームで開催された巨人軍創設90周年記念試合「長嶋茂雄DAY」で松井秀喜さんとともに登場しました。それ以外の日も球場を訪れ、選手たちを激励していました。 長嶋茂雄さんは1936年2月20日、千葉県印旛郡臼井町(現在の佐倉市)生まれ。立教大学では名プレイヤーとして知られ、巨人入団1年目から傑出した成績を収めました。現役引退後も監督として活躍し、数々のタイトルを獲得しました。1988年には野球殿堂入りを果たしました。 家族には、故・亜希子夫人との間に長男の長嶋一茂さん、長女の有希さん、次女の三奈さん、次男の正興さんがいます。

長嶋茂雄さん死去89歳 数々の伝説残したミスタープロ野球/まとめ

プロ野球の巨人の監督を2期15年にわたって務めた巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分、肺炎のため、都内の病院で亡くなった。89歳だった。 長嶋茂雄さん死去 89歳 巨人軍終身名誉監督 04年に脳梗塞で倒れた後、リハビリ努めた 58年に新人王、MVP5度、首位打者6度、本塁打王2度、打点王5度/略歴 記録・語録・軌跡 デビューは4三振、天覧試合で1発、ONアベック、幻の本塁打 57年12月巨人入団、背番号3 59年天覧試合でサヨナラ本塁打… 88年、野球殿堂入り 92年ドラフトで松井秀喜引き当てる… 東京6大学で本塁打新記録、天覧試合でサヨナラ本塁打、通算444本塁打 語録「アメリカの子供は英語がうまいね」「今年、初めて還暦を迎えまして…」 ヘイ!カール、メークドラマ/平成の長嶋茂雄伝説 球界悼む 巨人軍オーナー「志は、後輩たちが確実に受け継いで」 コメント全文 各界悼む プリティ長嶋「我がミスタープロ野球 長嶋茂雄は永久に不滅です!」長嶋茂雄さん悼む 菊間千乃氏「希有なスーパースター」長嶋茂雄さん死去に「本当に遠くから見ても分かる明るさ」 乙武洋匡氏「バリアフリーではない室内練習場で気にかけてくださった」長嶋茂雄さん悼む 長嶋茂雄さん死去 谷原章介生放送で悼む「野球が好きな人ってみんな長嶋さんのことが好き」 巨人ファン小沢仁志「栄光の背番号3 子供の頃からずーっと観てました」長嶋茂雄さん悼む 担当記者悼む 長嶋ジャパンで感じたミスター 律義な人柄、屈託ない笑顔 五輪の指揮が見たかった...

【長嶋茂雄氏の天覧試合復刻】阪神・村山実からのサヨナラ本塁打「この感激は一生忘れません」

長嶋茂雄氏、プロ野球・巨人軍の終身名誉監督として15年間にわたり指揮を執った偉大な人物が、3日午前6時39分に肺炎のため東京都内の病院でお亡くなりになりました。享年89歳。読売新聞グループ本社、読売巨人軍、オフィスエヌにより発表されました。今回は、長嶋氏が活躍した天覧試合の再現です。<1959年6月25日>セ・リーグの第12節3日目で、プロ野球の歴史に残る天覧試合が行われました。天皇皇后両陛下を迎えての巨人-阪神の試合、そして他には宇部で大洋-広島、中日で中日-国鉄の試合が実施されました。注目された巨人-阪神戦では、両チームのエースである藤田・小山投手が登板しました。試合は打撃戦となり、最終的に長嶋氏が村山投手から劇的なサヨナラ13号本塁打を放ち、巨人が勝利をおさめました。中日と大洋もそれぞれ国鉄、広島に快勝しました。★藤本選手と王選手の一進一退★試合の開始に際して、小山投手は長期の休養への不安を払拭するかのようにスローボールで慎重なピッチングを見せました。巨人の攻撃をかわし続ける中、藤田投手も巧みなピッチングを披露しました。しかし3回で一致しなかった小山投手が失点し、巨人がリードを奪いました。長嶋選手の本塁打が巨人に逆転の力を与え、試合はさらに激しくなりました。★エース同士の対決★試合は波乱の幕開けでした。阪神が同点に追いついた後、藤本選手が再び試合を逆転させるも、続く巨人の攻撃で王選手が同点本塁打を放ちます。試合は緊張感を漂わせ、村山投手も登板しましたが、遅れを取る結果となりました。 ★劇的な結末★試合は再び振り出しに戻り、阪神は8回にチャンスを迎えましたが得点を逃します。その後、長嶋氏が土壇場でのサヨナラ本塁打を放ち、試合は幕を閉じました。村山投手の速球を見事にとらえた長嶋選手の一打は、まさに劇的なものでした。両陛下もこの素晴らしい試合展開をご覧になり、興味深く退場されました。◎一生忘れない感動◎長嶋選手はサヨナラ本塁打を打った瞬間、充実した表情で打球の行方を見届けました。彼の一打が観客を魅了し、選手たちと歓喜を分かち合いました。取材陣からの質問に対し、彼は小山投手のシュートを打ち返した瞬間の自信がついたと答えました。長嶋氏は「この感激は一生忘れないでしょう」と述べ、心からの喜びを感じていました。

大谷翔平、3試合ぶりの23号ホームランなるか 長嶋茂雄さん、最後の公の場は大谷との2ショット/速報

ドジャースの大谷翔平選手は「1番DH」として先発出場しています。 巨人の長嶋茂雄終身名誉監督が3日午前6時39分、肺炎のため都内の病院で亡くなりました。享年89歳でした。 長嶋氏が最後に公の場に姿を見せたのは、3月15日に行われた巨人-ドジャースのプレシーズンゲーム(東京ドーム)でのことでした。 チーム123456789計 メ 0 ド 0 大谷翔平 第1打席 ドジャース大谷翔平(2025年4月撮影) 長嶋茂雄終身名誉監督(2015年撮影)

大谷翔平「心よりご冥福をお祈り致します」2ショット写真を投稿して故・長嶋茂雄氏に哀悼の意

ロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平選手(30歳)は、巨人軍の終身名誉監督である長嶋茂雄氏(享年89)の訃報を受けて、インスタグラムで哀悼の意を表しました。 長嶋氏は3日の午前6時39分に肺炎により、東京都内の病院で息を引き取りました。このことは読売新聞グループ本社、読売巨人軍、そしてオフィスエヌの連名で発表されました。 大谷選手は、3月に東京ドームで行われた開幕シリーズの際に撮影した長嶋氏との2ショット写真を公開し、「心よりご冥福をお祈り致します」とコメントを添えています。 長嶋氏の葬儀及び告別式は近親者のみにより執り行われます。後日にお別れの会を催す予定で、日程や会場については追ってお知らせするとしています。 2004年3月4日に、アテネ五輪の日本代表監督時代に脳梗塞で倒れ、右半身に麻痺が残りました。しかし、懸命なリハビリを続け、2007年2月には巨人キャンプを視察するまでに回復しました。2013年には松井秀喜氏と共に国民栄誉賞を受賞。同年5月に東京ドームで行われた授賞式では、始球式でのスイングも披露し、左手一本でバットを振り観衆を沸かせました。 2018年7月には胆石による入院、一時は危険な状態にありましたが、驚異的な生命力で復帰。2021年の東京五輪開会式では、王貞治氏や松井氏と共に聖火ランナーを務め、オリンピックへの夢を叶えました。 2022年9月には転倒により脳内出血で入院、その後も療養を続けていましたが、2023年3月31日の中日との開幕戦や11月23日「ジャイアンツ・ファンフェスタ2023」では東京ドームに姿を見せました。足腰のリハビリで退院はできていない中、ファンフェスタでは阿部慎之助新監督からマイクを託され「来年は絶対に勝とう! 勝つ、勝つ、勝~つ!」と叫び、球場に集まった3万9527人を感動させました。 さらに2024年5月には、東京ドームで行われた球団創設90周年記念特別試合「長嶋茂雄DAY」に、松井氏とともにサプライズで登場しました。それ以外にも東京ドームを訪れ、阿部監督やチームを激励しました。

ヘイ!カール、メークドラマ/平成の長嶋茂雄伝説

プロ野球界で2期15年にわたり読売ジャイアンツの監督を務めたジャイアンツ軍終身名誉監督の長嶋茂雄さんが、3日午前6時39分に肺炎のため都内の病院で亡くなりました。89歳でした。この訃報は、読売新聞グループ本社、読売ジャイアンツ、オフィスエヌが連名で発表しました。 <平成の長嶋茂雄伝説> ◆91年(平成3年) 8月26日 長嶋茂雄さんは世界陸上のリポーターを務め、100メートル走で優勝したカール・ルイスにスタンドから「ヘイ、カール」と声をかけました。その際、犬が好きなルイスに秋田犬の子犬を贈ったことがあり、後に自身が脳梗塞で倒れた際にルイスからメッセージが届きました。 91年、世界陸上で長嶋茂雄さんは「ヘイ!カール」と呼び止めてカール・ルイスと握手 ◆92年(平成4年) 11月12日 長嶋茂雄監督がジャイアンツの監督に復帰し、ドラフト会議で星稜高校出身の松井秀喜をくじ引きで獲得しました。 92年11月12日 ドラフト会議で松井秀喜の交渉権獲得にサムアップポーズを見せる長嶋茂雄監督 ◆93年(平成5年) 2月17日 長嶋監督はフィールドで初めて長男の長嶋一茂選手に打撃指導を行いました。さらに、評論家の張本勲氏と一緒にステップの矯正を手伝いました。 11月21日 FA宣言した槙原選手の自宅を背番号と同じ17本のバラを持って訪問し、残留を決意させました。 93年11月21日、FA宣言した槙原寛己(右)の自宅を訪れた長嶋茂雄監督 ◆94年(平成6年) 10月8日 勝利すると優勝が決まる同率最終戦を前にホテルでのミーティングで「勝つ、勝つ、勝ーつ」と選手たちを鼓舞しました。その結果、槙原、斎藤、桑田という先発投手の柱を巧みに使い勝利しました。 94年10月8日、中日対巨人 リーグ優勝を決め、祝勝会場でのビールかけに笑顔の巨人長嶋茂雄監督 ◆95年(平成7年) 7月23日 「9、10月に必ずメークドラマします。かけてもいいですよ」と豪語し、試合では非常に強気な表情で審判に抗議しました。同年は3位で終わりました。 ◆96年(平成8年) 2月2日 長嶋監督が宮崎キャンプ中に60歳の誕生日を迎え、「今年初めて還暦を迎えまして…」と語り、選手のアップに飛び入り参加し、30メートルのダッシュを繰り返しました。 96年2月 巨人春季キャンプ 還暦を迎え赤いちゃんちゃんこを着た長嶋茂雄監督...