スーパースターの本音「長嶋茂雄であり続けるのは大変です」努力、痛みを見せずに野球を国民的競技へ

偉大なプロ野球選手が旅立ちました。巨人軍の終身名誉監督だった長嶋茂雄さんが3日午前6時39分、肺炎のため都内の病院で亡くなりました。享年89歳でした。
全国的に愛されたスーパースターとして、長嶋さんは戦後の復興時期から高度経済成長を支え、日本を照らし続けました。巨人の監督としても5度のリーグ優勝と2度の日本一を成し遂げました。2004年に病に倒れた後も野球界へ深い愛情を注ぎ、最近はドジャースで活躍する大谷翔平選手(30)のパフォーマンスを心から喜んでいました。日本の野球界に多大な貢献をした人物が静かにその人生の幕を閉じました。葬儀と告別式は近親者のみで行われ、喪主は次女の三奈さんです。後日、長嶋さんを偲ぶ会が催される予定です。
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ついにこの日が訪れました。長嶋さんが亡くなった日、89歳の6月3日。野球と背番号「3」に深い愛情を持っていた長嶋さんにふさわしい最後でした。
長嶋さんとの「出会い」は1974年(昭和49年)10月14日でした。当時9歳だった私は母の実家で遊んでおり、20代後半の叔父がテレビの前で直立不動になり、涙を流していました。画面では長嶋さんが引退セレモニーで涙をぬぐっていました。「大の大人を泣かせるこの長嶋という人はどんな人物なんだろう」。その光景は子供心に強烈に刻まれました。
記者となり、長嶋巨人を担当することで、子供時代の疑問に答えを求めました。仕事で対面して話すことがありましたが、長嶋さんからは不思議と「口臭」を感じたことがありませんでした。瞳も青みがかっており、独特の透明感がありました。確かに普通とは違うオーラが感じられました。
しかし、本当に人々を引き付けたのは、そのシンプルな魅力でした。
「期待に応えたい、みんなを喜ばせたい」
現役時代も監督時代も、長嶋さんはまずカメラマンの位置を確認し、どのポーズが良い写真になるかを考えていました。大差で負けている試合でも投手をつぎ込む理由を「ファンがあきらめていないのにあきらめるわけにはいかない」と語り、松井秀喜には「我々にとっては130分の1かもしれないが、一生に一度のファンもいる」と伝え、毎日全力でプレーすることを望んだのです。
努力する姿は見せませんでした。現役時代には足の指を骨折しても口笛を吹いて球場を去り、家に帰ると関係者に氷を用意させたこともありました。監督時代は試合前にすべてシミュレーションし、思い通りにならなかった時には帰り道でストレスを解消していました。
「『長嶋茂雄』を続けるのは大変ですよ」と冗談交じりに話していたこともありますが、それでも苦しい部分を見せず、常に明るく華やかに振る舞いました。その姿勢は、多くの人の期待を受け止め、その期待に全力で応えることに喜びを感じているようでした。
王貞治氏らとともに巨人のV9を導き、プロ野球を日本の最も人気のあるスポーツに押し上げた存在です。その土台の上に原辰徳、掛布雅之、イチロー、松井、そして大谷翔平が存在します。長嶋さんがいなければ、そしてもしも「長嶋茂雄」でなかったら、数々のスーパースターは誕生したでしょうか。
長嶋さんは亡くなりましたが、「ファンを一番に考え、期待に応えるために努力を惜しまない」長嶋さんの精神は続いていくことでしょう。願わくは、その精神が永遠に。【元巨人担当・沢田啓太郎】