「4番サード長嶋」が生まれた背景〜高校時代の転機となる4つの失策とは

巨人軍の監督を2期15年にわたって務めた、巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分、肺炎のため、東京都内の病院でこの世を去りました。享年89歳でした。
◇ ◇ ◇
「4番サード長嶋」という異名は、4つの失策から始まりました。長嶋さんは高校(佐倉一=現佐倉)時代、3年生の春までは「4番ショート」として活躍していました。入学当初170センチ未満だった身長は急激に成長し180センチ近くに。大きくなった体に対応しきれず、凡庸なゴロをさばき切れずに失策が目立つようになりました。
1953年(昭和28年)6月14日、佐倉一、市川、県船橋の3校が集まり、変則ダブルヘッダーの練習試合が行われました。第1試合の県船橋戦で長嶋さんはなんと4つの失策を犯しました。当時の加藤哲夫監督は、コンバートを考慮し、第2試合の市川戦のメンバー表に「4番サード長嶋」と記載しました。
サードへ移ると長嶋さんは水を得た魚のように活躍し始めました。失策が減少し、打撃も向上し、夏の南関東大会1回戦では大宮県営球場での伝説のバックスクリーン弾につながりました。高校時代唯一の公式戦本塁打は関係者の間で大きな話題となり、6大学のスターからミスタープロ野球へと駆け上がるきっかけとなりました。
1982年(昭和57年)に発刊された佐倉高校創立80周年記念校史の中で、長嶋さんは当時をこう振り返りました。「サードという自分の性格に合った攻撃的なポジションにコンバートされたことが、現在の私を形作ったと思います。もしショートやセカンドでプレーしていたならば、また違った野球人生を歩んでいたでしょう。」