Day: June 3, 2025

【訃報】長嶋茂雄さんが89歳で死去 ミスタープロ野球が残した数々の伝説

プロ野球の巨人軍で2期15年にわたって監督を務めた巨人軍終身名誉監督、長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分に肺炎のため都内の病院で亡くなりました。享年89歳でした。 記録・伝説・語録 球界悼む 各界悼む メディア、SNSなどの反応 担当記者悼む 長嶋茂雄氏の年度別成績 長嶋茂雄氏の年度別監督成績 ◆長嶋茂雄(ながしま・しげお)1936年(昭和11年)2月20日、千葉県印旛郡臼井町(現佐倉市)生まれ。佐倉一高(現佐倉高)から立教大学に進学し、杉浦、本屋敷と共に黄金時代を築き、首位打者2回を誇り、東京6大学の新記録となる通算8本塁打を放ちました。 巨人入団1年目の1958年に打率3割5厘、29本塁打、92打点で本塁打王、打点王に輝き、新人王を受賞しました。1959年6月25日の天覧試合(対阪神)では同点本塁打とサヨナラ本塁打を記録し、王貞治との「ON砲」で1965年からの巨人V9を支えました。1974年に現役引退するまでMVP5回、首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回を獲得し、「ミスター・ジャイアンツ」として球界最大のスーパースターとなりました。 巨人監督に就任した1975年は球団初の最下位を経験しましたが、監督としては1975~1980年、1993~2001年の計15年間務め、リーグ優勝5回(1976年、1977年、1994年、1996年、2000年)、日本一2回(1994年、2000年)を達成しました。アテネオリンピック日本代表監督として2003年のアジア予選は3戦全勝で五輪出場を決めましたが、2004年の本戦では病気のため采配を振るうことができませんでした。 1988年に野球殿堂入り。現役時代は身長178センチ、体重76キロ、右投げ右打ち。家族には亡き亜希子夫人(2007年9月18日、64歳で死去)との間に長男一茂さん(元プロ野球選手)、長女有希さん、次女三奈さん(フリーアナウンサー)、次男正興さんがいます。 長嶋茂雄氏(2019年9月27日撮影)

【DeNA】三浦監督「五輪ユニホームはサインをいただいてずっと飾っている」長嶋茂雄さん追悼

プロ野球の巨人の監督を2期15年にわたって務めた巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分、肺炎のため、都内の病院で亡くなった。89歳だった。   ◇   ◇   ◇▽DeNA三浦監督(04年アテネ五輪メンバー)「朝からニュースを見てびっくりしましたし、残念です。アテネ五輪では長嶋監督のもとで日本代表のユニホームを着て戦わせていただいた。ご病気でアテネの方には行かれられなかったですけど、『アテネ会』という子どもたちへの野球の伝道師として、野球教室で毎年1回お会いさせていただいて。五輪のユニホームはサインをいただいて、ずっと家に飾っています。うちの家宝ですね」▽DeNA高田繁元GM(巨人のV9戦士で76年には「長嶋巨人」の初優勝に貢献)「長嶋さんとは前人未到のV9という時代をともに過ごしただけでなく、長嶋さんの監督1年目というとてもつらい時間も一緒に過ごさせてもらいました。長嶋さんは常に前向きに、野球を楽しもう、そしてファンファーストの精神でお客さんを喜ばせようということを考えられていた人でした。これは今のプロ野球選手にも通ずる、必要な姿勢だと思います。本当にお疲れさまでした」▽DeNA南場智子オーナー プロ野球界の元気、日本の元気を支えて来られた偉大な存在を失い、深い悲しみを覚えます。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。長嶋さんのお心を引き継ぎ、未来につなぐよう努力してまいります。長嶋茂雄さん死去89歳 数々の伝説残したミスタープロ野球/まとめ>>

ドジャースの大谷翔平が5月の月間MVPを受賞、6回目の栄誉で日本人最多記録を更新 – 15本塁打を記録

メジャーリーグベースボール(MLB)は3日(日本時間4日)に、5月の月間最優秀選手(MVP)を発表しました。ナショナルリーグからはロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平選手(30歳)が選ばれました。今までに6回目の受賞となり、昨年9月以来の快挙です。5月に大谷選手は、自己最多に並ぶ15本のホームランを打ち、打率3割9分、そして17打点とチームをリードしました。さらにOPS(出塁率+長打率)は驚異的な1.180という数字を記録しました。驚くべきことに、5月に2度も3試合連続ホームランを達成し、6月までに63得点に達したのは、1901年以降の現代野球における初の記録でした。一方、アメリカンリーグではニューヨーク・ヤンキースのアーロン・ジャッジ選手(33歳)が月間MVPに選出されました。5月の成績は打率3割6分4厘、11本のホームラン、18打点で、OPSは大谷選手を上回る1.251を記録しています。ジャッジ選手にとっては、4月に続いて2カ月連続、そしてキャリアで11度目の受賞となります。

原辰徳氏「懐が大きくてかわいがってくれた」巨人の監督を託してくれた長嶋茂雄さんを追悼

巨人の前監督、原辰徳氏(66)にとって、長嶋茂雄さんは特別な存在でした。 長嶋選手に憧れを抱いて野球を続け、巨人に入団しました。そして、1993年には長嶋さんが再び巨人の監督として復帰しました。彼が監督を務めた1995年には引退を決断しました。その後、野手総合コーチとして再び巨人のユニホームに袖を通しましたが、それも長嶋監督の下でのことでした。 都内のホテルで、長嶋監督からコーチの依頼を受けた際、原氏は自分を厳しく扱った長嶋監督に「ひとつだけ約束してほしいことがあります。私をかわいがってください」とお願いしました。「分かった」の一言で、すべてのわだかまりを捨てたのです。 その言葉に偽りはありませんでした。コーチに就任した直後、送りバントが簡単に行われるチームに変化を加えようとしました。長嶋監督に「送りバントが出そうなときは、すべてチャージをかけるようにしていいですか?」と許可を求めました。ただ、しばらくすると相手にも察知され、ヤクルトの野村監督にはバスターエンドランに切り替えられ、苦い経験もしました。 「やってみないと分からないことがあります。やはり臨機応変に戦わなければなりません。長嶋監督は、それを理解して許可を出してくれたと思います。それは大きな学びでしたが、長嶋監督には迷惑をかけました。この恩を返さなければなりません」 2000年の日本シリーズで、ダイエー(現ソフトバンク)との“ON対決”は話題を集めました。しかし、巨人は2連敗というスタートを切りました。 「あの年の日本シリーズは変則日程で、2戦目の後に1日も空くことなく福岡ドームで試合でした。連敗でチームのムードは悪かったのですが、長嶋監督は“明日はオーダーを変えるぞ”と一言。その迫力とオーラは素晴らしいものでした。チームの雰囲気も一変し4連勝を達成して日本一になりました。当時の巨人はオーダーを固定することが多かったのですが、短期決戦では違いました。長嶋監督だからこそ、効果があったのでしょうが、新しい戦い方を学びました」 そして、長嶋監督が2001年シーズンの終盤に勇退する際、密かにヘッドコーチの身分のまま采配を任されました。 「あの時、長嶋監督は退くことを決めていたのでしょう。それで経験を積ませてくれたのだと思います。最終戦の後、“来年からは君のチームだ”と託してもらいました。監督として、人間として懐の大きいお方で、本当に自分をかわいがってくれました」 監督に就任した際には、背番号を「83」に決めました。これは長嶋監督の野球を継承する意志を込めて、自分の現役時代の「8」と長嶋氏の「3」を組み合わせた番号でした。その説明に偽りはありませんが、感謝の気持ちで長嶋監督とともに戦いたかったのです。【小島信行】

スーパースターの本音「長嶋茂雄であり続けるのは大変です」努力、痛みを見せずに野球を国民的競技へ

偉大なプロ野球選手が旅立ちました。巨人軍の終身名誉監督だった長嶋茂雄さんが3日午前6時39分、肺炎のため都内の病院で亡くなりました。享年89歳でした。全国的に愛されたスーパースターとして、長嶋さんは戦後の復興時期から高度経済成長を支え、日本を照らし続けました。巨人の監督としても5度のリーグ優勝と2度の日本一を成し遂げました。2004年に病に倒れた後も野球界へ深い愛情を注ぎ、最近はドジャースで活躍する大谷翔平選手(30)のパフォーマンスを心から喜んでいました。日本の野球界に多大な貢献をした人物が静かにその人生の幕を閉じました。葬儀と告別式は近親者のみで行われ、喪主は次女の三奈さんです。後日、長嶋さんを偲ぶ会が催される予定です。  ◇  ◇  ◇ついにこの日が訪れました。長嶋さんが亡くなった日、89歳の6月3日。野球と背番号「3」に深い愛情を持っていた長嶋さんにふさわしい最後でした。長嶋さんとの「出会い」は1974年(昭和49年)10月14日でした。当時9歳だった私は母の実家で遊んでおり、20代後半の叔父がテレビの前で直立不動になり、涙を流していました。画面では長嶋さんが引退セレモニーで涙をぬぐっていました。「大の大人を泣かせるこの長嶋という人はどんな人物なんだろう」。その光景は子供心に強烈に刻まれました。記者となり、長嶋巨人を担当することで、子供時代の疑問に答えを求めました。仕事で対面して話すことがありましたが、長嶋さんからは不思議と「口臭」を感じたことがありませんでした。瞳も青みがかっており、独特の透明感がありました。確かに普通とは違うオーラが感じられました。しかし、本当に人々を引き付けたのは、そのシンプルな魅力でした。「期待に応えたい、みんなを喜ばせたい」現役時代も監督時代も、長嶋さんはまずカメラマンの位置を確認し、どのポーズが良い写真になるかを考えていました。大差で負けている試合でも投手をつぎ込む理由を「ファンがあきらめていないのにあきらめるわけにはいかない」と語り、松井秀喜には「我々にとっては130分の1かもしれないが、一生に一度のファンもいる」と伝え、毎日全力でプレーすることを望んだのです。努力する姿は見せませんでした。現役時代には足の指を骨折しても口笛を吹いて球場を去り、家に帰ると関係者に氷を用意させたこともありました。監督時代は試合前にすべてシミュレーションし、思い通りにならなかった時には帰り道でストレスを解消していました。「『長嶋茂雄』を続けるのは大変ですよ」と冗談交じりに話していたこともありますが、それでも苦しい部分を見せず、常に明るく華やかに振る舞いました。その姿勢は、多くの人の期待を受け止め、その期待に全力で応えることに喜びを感じているようでした。王貞治氏らとともに巨人のV9を導き、プロ野球を日本の最も人気のあるスポーツに押し上げた存在です。その土台の上に原辰徳、掛布雅之、イチロー、松井、そして大谷翔平が存在します。長嶋さんがいなければ、そしてもしも「長嶋茂雄」でなかったら、数々のスーパースターは誕生したでしょうか。長嶋さんは亡くなりましたが、「ファンを一番に考え、期待に応えるために努力を惜しまない」長嶋さんの精神は続いていくことでしょう。願わくは、その精神が永遠に。【元巨人担当・沢田啓太郎】

【ヤクルト】ついにプロ野球ワースト達成…13試合連続で2得点以下 深刻な貧打で6連敗、負け越し18

ヤクルトはサヨナラ負けを喫し、プロ野球では前例のない13試合連続の屈辱的な記録を更新し、6連敗となりました。延長11回、1アウト一、二塁からセデーニョが三塁と遊撃手の間に内野安打を放ちました。遊撃手の伊藤がボールを三塁へ投げる際に悪送球し、ボールがファウルゾーンへと進む間に決勝点を献上しました。西武の先発投手隅田に対して、9回途中までに8安打を放ちながらも得点することができませんでした。0-0の9回、2アウト一、三塁のチャンスでは、オスナが2番手ウィンゲンターに対してライトフライに倒れ、あと一打が出ませんでした。5月18日のDeNA戦から続く13試合連続で2得点以下は、1962年の国鉄(現ヤクルト)と1993年の巨人の12試合を超え、プロ野球のワースト記録となりました。今回も“2点の呪縛”から逃れることができず、借金は18になりました。

【中日】井上監督、7回の走塁ミスに怒り「恥ずかしい」「あんなプレーやってたら勝てませんわ」

中日ドラゴンズの井上一樹監督(53)が、試合の7回に起きた走塁ミスに対して強い怒りを示しました。「プロ野球選手として恥ずかしい。あんなプレーやってたら勝てませんわ」とコメントしました。 7回、1アウト一、二塁の場面で、村松開人内野手(24)が右越えのヒットを打ちましたが、二塁走者の高橋周平内野手(31)が三塁ベースで止まってしまいました。一塁をオーバーランした村松は挟まれ、その間に高橋も飛び出し、三塁と本塁の間で挟まれてアウトになりました。 「プロ野球選手である以上、ちょっとミーティングでも話したんだけど、それは恥ずかしいと思っている。『ワンアウトでしょ』っていうね。1アウトの場面で二塁走者の高橋がタッチアップを試みて、それよりも一塁走者板山は詰めていた。そして打った村松はツーベースだと確信していた」と状況を説明しました。 「しかし、全員が何を確認しきれなかったのか。『アウトカウント』なのか、『1アウトならハーフウェー』なのか。打った村松も、打った感覚では分かっていると思うけど、『前が詰まっているかどうか』確認できていたか。3人それぞれ反省すべき点がある」と話しました。 「でも、あれは説明しようとも、私たちも子供の頃から野球をしている。だから『あんなプレーやってたんでは、勝てませんわ』っていう話ですよ」とあきれた表情を見せました。 公式戦で2年に1度しか行われない福岡のペイペイドームでの試合であり、普段は頻繁にナゴヤドームでプレーしていますが、『追い方を見て』と頭を完全に越える打球ではあったと苦言を呈しました。「右翼手の近藤が、ちょっと捕れそうな雰囲気を出していたのは確かにうまかったが、『そこで慌てる必要はないでしょ』ということだった」と相手のフェイクを褒めつつ、残念な走塁ミスで、ソフトバンクを上回る9安打を放ちながらも今季12度目の完封負けとなりました。   ▼中日 高橋周「(村松)開人にも申し訳ないし、チームにも。2度とやらないようにしていきたい。普通にハーフウェーでプレーすれば、なんてことないプレーだった」

「4番サード長嶋」が生まれた背景〜高校時代の転機となる4つの失策とは

巨人軍の監督を2期15年にわたって務めた、巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄(ながしま・しげお)さんが、3日午前6時39分、肺炎のため、東京都内の病院でこの世を去りました。享年89歳でした。   ◇   ◇   ◇「4番サード長嶋」という異名は、4つの失策から始まりました。長嶋さんは高校(佐倉一=現佐倉)時代、3年生の春までは「4番ショート」として活躍していました。入学当初170センチ未満だった身長は急激に成長し180センチ近くに。大きくなった体に対応しきれず、凡庸なゴロをさばき切れずに失策が目立つようになりました。1953年(昭和28年)6月14日、佐倉一、市川、県船橋の3校が集まり、変則ダブルヘッダーの練習試合が行われました。第1試合の県船橋戦で長嶋さんはなんと4つの失策を犯しました。当時の加藤哲夫監督は、コンバートを考慮し、第2試合の市川戦のメンバー表に「4番サード長嶋」と記載しました。サードへ移ると長嶋さんは水を得た魚のように活躍し始めました。失策が減少し、打撃も向上し、夏の南関東大会1回戦では大宮県営球場での伝説のバックスクリーン弾につながりました。高校時代唯一の公式戦本塁打は関係者の間で大きな話題となり、6大学のスターからミスタープロ野球へと駆け上がるきっかけとなりました。1982年(昭和57年)に発刊された佐倉高校創立80周年記念校史の中で、長嶋さんは当時をこう振り返りました。「サードという自分の性格に合った攻撃的なポジションにコンバートされたことが、現在の私を形作ったと思います。もしショートやセカンドでプレーしていたならば、また違った野球人生を歩んでいたでしょう。」

「けじめをつけるんだ」巨人監督長嶋茂雄が丸刈り頼んだ理髪店「もう少し通ってほしかった」

3日朝に亡くなった長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督(享年89)がかつて、丸刈り頭で球場入りし、ファンらを驚かせたのも記憶に残る名シーンだった。そんな丸刈りを頼むなどミスターが現役時代から50年以上通った理髪店「文化理髪室」は現在、東京都大田区にある。店長の吉田博さん(78)は「当時の長嶋さんは髪が長くて帽子姿で来ると、いきなり『五分刈り、三分刈りにしてくれ』って言い出してね」と懐かしそうに振り返った。1998年夏、松井秀喜と清原和博の「MK砲」を擁した長嶋巨人はV戦線生き残りへがけっぷちだった。7月31日の阪神戦(甲子園)では、ガルベスが審判員にボールを投げつけて無期限の出場停止。8月2日は乱闘の末、武上打撃コーチが出場停止処分を受けた。チームの不振に、相次ぐ不祥事。厳しい現実に長嶋監督は心を痛めていた。契約最終年で去就も問われていた。同月の広島戦前に指揮官が訪れたのは、当時渋谷区にあった吉田さんが営む理髪店。ゴルフキャップをかぶって来店すると、担当だった弟の明さんに「吉田君さ、丸坊主にするにはどれぐらいにすればいい。けじめをつけるんだ」と興奮気味に聞いてきた。突然の注文に戸惑ったが、明さんは手動バリカンを使って刈り上げた。「いやー、学生以来だな」。長嶋氏は立大以来の丸刈り頭になっていた。ミスターの丸刈り頭はその後、チーム内の危機感を生み、監督続投にもつながった。一連の出来事に兄の博さんは「一つの癒やしではなく成功につなげてくれたのがうれしかった」。さらには「スランプで店に来た日でも嫌な顔一つしなかったね。本当に切り替えの早い人だった」とミスターの人間力を感じ取った。店は長嶋氏が入団2、3年目の時に、ある野球解説者の紹介で訪れたのがきっけだった。多い時は週2、3回通った。お気に入りメニューはシャンプー。店内に置いて帰っていた老眼鏡をかけて、雑誌を読みながら受けていたという。03年に大田区に移転した後も、病気のリハビリも兼ねて通ってくれた。2階の店内へ階段で上がる時はいつも「エッサ、エッサ」と声を出す。散髪後に「取っておいた方がいいよ」と言われた白髪交じりの毛は博さんが大切に保管している。博さんが長嶋氏を目にしたのは、東京五輪で聖火ランナーを務めた21年が最後と言うが、毎年、写真カレンダーが届くなど親交は長く続いていた。「偉大な長嶋さんのおかげで店が繁盛したのもある。もう少し長く通ってほしかったけど、天国からうちの店を見ていてほしい」と話した。【泉光太郎】長嶋茂雄さん死去89歳 数々の伝説残したミスタープロ野球/まとめ>>

清原和博氏が長嶋茂雄さんへの感謝を述べる「夢の巨人軍へ導いていただいた」** **

** プロ野球で通算525本塁打を記録した清原和博氏(57)が、3日に89歳で他界した巨人軍の終身名誉監督、長嶋茂雄さんへの追悼メッセージをXに投稿しました。監督と選手としての深い関係を持っていた清原氏は、「突然の訃報に驚いています。自分の夢であった巨人軍に導いてくださったのは長嶋さんでした。調子が上がらず苦しい時、遠征先のホテルでバットを振り続け、ご指導いただいたことが最も心に残っています。心からの感謝と共に、ご冥福をお祈りします。」と追悼の意を述べました。