【楽天】浅村栄斗、“兄”の背中を追い続けた末に達成した2000安打 苦難を乗り越え、フォーム改良が結実

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涙を抑えることができなかった。楽天の浅村栄斗内野手(34)が、平成生まれとして初めて、そして史上56人目となる通算2000安打を達成した。彼は、日本ハム戦(楽天モバイルパーク)に「3番一塁手」として出場し、初回の山崎投手から右前に適時打を放ち、4月に達成した通算300本塁打に続く偉業を成し遂げた。お立ち台では感情が溢れ、人前も憚らず涙を流した。西武時代の“兄”として背中を追った先輩さえ成し得なかったこの記録を、自身が達成したのである。楽天での記録保持者としては、2015年の松井稼頭央以来2人目そして、大阪桐蔭出身者としては初めて名球会の資格を得た。

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浅村は涙した。2000安打を決勝打で飾り、本拠地のお立ち台に胸を張って立った際、インタビュー中に自然と涙が流れた。

「泣くとは思ってなかったんですが、これまでのことが一気に蘇りました。2000本で涙を流す人はあまりいないと思っていたので、恥ずかしいです。でも、様々な感情が溢れて、つい涙が出ました」

苦しみに苦しんで、やっと辿り着いた偉業だった。試合開始早々、一死二塁から日本ハムの山崎投手の投球を右前に打ち返し、先制打を記録。浅村らしい逆方向への打球だった。「忘れることのないヒットになると思うし、2000本の中でも一番の思い出に残る1本」だと話す。そして2回には左前に2001本目を運んだ。

自己ワーストの35打席連続無安打も経験し、20日には歴代4位の連続試合出場「1346」が途切れてしまった。しかし、これらの試練を乗り越えての偉業だった。チームメートも総立ちで称賛し、歴史的瞬間を見守ったファン、さらには日本ハムの選手たちからも拍手が贈られた。

プロ野球への道は険しかった。大阪桐蔭高校2年生の冬、進路希望には「プロ」と記したが、1学年上の中田翔(中日)のようにスカウトが常に視察に訪れるような注目選手ではなく、“いい選手”と評価されていた。高校3年春時点では、ドラフト5位で指名されることも危ぶまれ、指名されなかった場合は社会人チームに進む内定も出ていた。

しかし、後に西武がドラフト3位で指名。08年夏の甲子園で、1番打者として大爆発し、優勝に貢献したことで評価が一変、西武の中心選手であった中島宏之氏(42)の後継者になる可能性も取り沙汰された。

“兄”のように慕った中島の背中を追った。西武時代の1年目オフから4年間、自主トレに同行。浅村は「中島さんとの練習、一緒にプレーした時間が今の自分を作ってくれた」と述べる。また、「右方向にすごいホームランを何本も打っているのを見て、こういう選手になりたい」と憧れていた。

中堅から右方向への打球が多いのは、2013年6月の左肩負傷の影響もある。「ある程度のけがは(試合に)出られる」というのが浅村の理念だが、肩に負担の少ないフォームを模索し、テニスラケットのように右手でボールを運ぶイメージでスイングするようになり、ヒットゾーンが広がった。「引っ張れないほど重症で、その中でどうすれば痛くなく、打てるかを考えた結果だった」。けがの功名だった。

数々の苦難を乗り越え2000安打に到達したが、あくまで通過点である。旅はまだまだ続く。【山田愛斗】

◆浅村栄斗(あさむら・ひでと)1990年(平成2年)11月12日、大阪府出身。大阪桐蔭高校3年の08年夏、甲子園で6試合16安打を放ち優勝。その後、ドラフト3位で西武に入団。3年目の11年に1軍に定着し、初の規定打席到達。18年オフにFAで楽天に移籍。本塁打王、打点王を各2度獲得。ベストナイン8度、ゴールデングラブ賞2度。オールスター出場8度。16年から昨季まで9年連続全試合出場。19年プレミア12、21年東京五輪で日本代表。182センチ、90キロ。右投右打。今季推定年俸5億円。妻はタレント、フリーアナウンサーの淡輪(たんのわ)ゆき。

◆日本プロ野球名球会 通算2000安打を達成した浅村は、名球会入りの資格を得た。名球会は1978年に設立され、野球振興、社会貢献を目的とする団体。入会資格は日米通算で投手なら200勝または250セーブ、打者なら2000安打以上。入会資格に相当する記録保持者が特例で入会する制度もある。理事長は古田敦也氏。

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