Day: May 23, 2025

大谷翔平、ニューヨーク遠征へ 敵地メッツ戦で千賀滉大と今季初対戦 ビジター6連戦前に休養

ドジャース大谷翔平投手(30)は22日(日本時間23日)は試合がなく、23日(同24日)から敵地ニューヨークでナ・リーグ東地区2位の強豪メッツ戦に臨む。3戦目にはナ・リーグ防御率1位の千賀滉大投手(32)が先発予定で、大谷と今季初対戦になる。公式戦では23年に対戦し2四球と右二塁打、ポストシーズンでは昨年、2試合で二ゴロ、右安、四球だった。日本時代は22打数5安打、2本塁打、4打点だった。大谷は今季ここまで打率3割4厘、17本塁打、31打点。「1番DH」で出場した21日(同22日)ダイヤモンドバックス戦(ドジャースタジアム)は4打数無安打で4試合ぶりのノーヒットに終わったが、チームは4番T・ヘルナンデスの逆転3ランで快勝した。デーブ・ロバーツ監督は試合後、メッツ戦に向けて「ここ2試合、選手たちはいい仕事をしてくれた。次は遠征で試練が訪れる。メッツは今シーズン開幕からずっといいプレーを続けているチーム。(昨年のリーグ優勝決定シリーズの)リベンジしたいとも思っているだろう。ファンも盛り上がって、いい雰囲気になる。我々も選手にいいプレーを期待したい」と語った。

レッドソックス吉田正尚が60日間のILに移行 右肩リハビリ再開も復帰のめど立たず

レッドソックスは22日(日本時間23日)、シーズン開幕から負傷者リスト(IL)入りしている外野手の吉田正尚(31)が、右肩のリハビリ中であることから10日間のILを60日間に延長すると発表しました。これは、エンゼルスからライアン・ノダ内野手(29)を金銭トレードで獲得し、40人枠を空ける必要が生じたための措置です。 吉田選手は昨年10月に右肩の手術を受けて以来、スローイングに万全ではなく開幕からIL入りしています。フロリダ州フォートマイヤーズのキャンプ施設で調整を続けていましたが、今月2日にボストンに戻り、MRI検査を受けました。その後、4日に抗炎症効果のあるコルチゾン注射を受けました。21日にリハビリを再開し、60フィート(約18メートル)の距離で投球練習を始めたとコーラ監督が発表しました。IL入りしてからの日数は25日で、開幕から60日を迎えますが、まだ復帰のめどは立っていません。 一方、ノダ選手は2023年にアスレチックスでメジャーデビューを果たし、1年目に16本塁打を記録しました。しかし、昨季は36試合の出場に制限され、オフシーズンにエンゼルスに移籍しました。ノダ選手は今季メジャーの試合には出場しておらず、今月18日にDFA(メジャー40人枠から外す措置)となっていました。左膝を負傷し今季絶望となった一塁手カサスの代わりとして期待されています。

【神戸】昨シーズンMVP、武藤嘉紀が腰椎椎間孔狭窄で全治3ヶ月 手術は成功

ヴィッセル神戸は23日、フォワードの武藤嘉紀選手(32歳)の負傷状況を発表しました。武藤選手は腰痛のため試合を離れており、徳島県内の病院で検査の結果、腰椎椎間孔狭窄と診断され、手術が行われました。手術は無事成功し、全治には3ヶ月かかる見込みですと発表されました。昨シーズン、リーグMVPを獲得した武藤選手は、今シーズンは腰痛の影響で試合の出場と欠場を繰り返しており、4月20日のFC町田ゼルビア戦を最後に別プログラムでの調整が続いていました。

ヤクルトの村上宗隆が野手部門で7位 25年オフのMLB注目FA候補50名

アメリカのメディア「The Athletic(ジ・アスレチック)」は、21日(日本時間22日)に25年オフに注目される米メジャーリーグのフリーエージェント(FA)候補トップ50を発表しました。そのリストにおいて、ポスティングによるメジャー挑戦が期待されているヤクルトの村上宗隆内野手(25歳)が、野手部門で7位にランクインしました。現在、彼は上半身のコンディション不良により2軍で調整中です。「メジャーリーグでは打率約.240から.260程度と予想されていますが、30本塁打を狙える強打者と評価されています。守備力については、三塁では平均以下、一塁ではまずまずとされています。今シーズンから初めて左翼も守っています。もし彼の三塁での守備をチームが受け入れる場合、ヤンキース、レッドソックス、タイガース、マリナーズ、レンジャーズ、パドレスが関心を示す可能性がある」とされています。リストの1位にはカブスのカイル・タッカー外野手(28歳)がランクインしました。

13日目の最初の取組で行司が土俵下へ転落 動けなくなり担架で退場 相撲診療所に

序ノ口の最初の相撲で、思わぬハプニングが発生しました。日本の大切な伝統である相撲において、予期せぬアクシデントは珍しいことです。 寺西が住吉を押し出した瞬間に、今場所デビューしたばかりの若い行司、式守友三郎(18=音羽山)が土俵下に落ちてしまいました。力士たちの激しい戦いの影響を受け、思わず土俵の下へ転がり落ちた友三郎は、その場から動けなくなり、救護班によりすぐさま手当てを受ける事態となりました。 護衛の親方衆もすぐに現場に駆け付け、友三郎は担架で搬送され、国技館内の相撲診療所に運ばれました。同会場内で適切な医療を受けられることは、安心できるポイントといえるでしょう。 この後の取組は、木村裕之助が行司を急きょ務め、無事に進行しました。ただ、若い世代の行司が事故に遭遇することは、相撲界にとっても注意が必要な出来事でした。

【競輪】武田豊樹、平原康多から引退報告を受け「その夜は眠れなかった」/手記

競輪界で長年“関東の総大将”として活躍してきた平原康多選手(42歳・埼玉)が、22日に電撃的な引退を発表しました。S級S班としてトップに位置する中での異例の決断に、かつて黄金コンビとして連携を組んだ武田豊樹選手(51歳・茨城)、同郷の後輩・宿口陽一選手(41歳・埼玉)、そして妻の久美さんがそれぞれの思いを語りました。武田選手は20日に引退の報告を受けたそうです。   ◇   ◇   ◇   20日に康多から連絡をもらい、引退を報告されました。それからというもの、その夜は眠れずに過ごしました。3月のG3玉野でのレースを見て、少しモチベーションが切れているのかなとは感じていましたが、まさか引退するとは考えてもみませんでした。彼の決断がいかに重いものであるかを理解していたので、引き留めることはできませんでした。それが、彼がやり切ったという証なのだと思います。年齢を重ねる中で、競輪の世界でトップを維持することの困難さは、康多本人にしか分からなかったでしょう。最近は怪我も多かったですし、僕自身も同じような時期があったので、その辛さは共感できます。彼が苦しみながらも頑張る姿は、自分にとっても励みになっていました。神山選手の引退に続き、寂しさがあります。今年5月の宇都宮G3、そして地元の取手G3で、康多と一緒に走る予定でした。取手で彼と連携できるかもしれないと淡い期待を抱いていました。しかし、その期待は叶わず、もう一緒に走ることはできないという心残りがあります。電話では明るく振る舞っていた康多ですが、年下の彼が先に引退するとは、特別な感情が湧き上がります。彼と共に走った時代は素晴らしく、競輪の魅力を教えてくれたことに感謝しています。現在の心情としては、彼がこの決断を下せたことを喜ばしく思っています。私自身、いつ引退してもいい覚悟ができており、今は1レースずつ集中して走っています。脚力は衰えていても、まだ心で戦える自信があります。しかし競輪人生はもう長くはないでしょう。康多の引退後は、今度は私が彼にアドバイスをもらいながら、残りの競輪人生を悔いなく過ごせるよう彼のサポートを受けたいです。康多、お疲れさまでした。

4アンダーの岩井千怜が首位スタート、勝みなみは1打差で5位、吉田優利は25位/リビエラマヤOP

初優勝を狙う新人の岩井千怜(22歳、Honda所属)が、5つのバーディーと1つのボギーを記録し、68で回り、4アンダーで首位スタートを切りました。同じく首位には、フィリピンのビアンカ・パグダンガナンを含む計4名が並んでいます。勝みなみ(26歳、明治安田所属)は5バーディー、2ボギーで69を記録し、1打差の5位です。吉田優利(25歳、エプソン所属)は、3つのバーディーと3つのボギーで72をマークし、25位となっています。竹田麗央(22歳、ヤマエグループHD所属)と岩井明愛(22歳、Honda所属)はどちらも4オーバーの76で回り、79位と少し出遅れました。この大会は新設され、メキシコではロレーナ・オチョア・マッチプレー以来8年ぶりのLPGAツアー開催です。29日開幕の今季メジャー第2戦、全米女子オープン選手権(ウィスコンシン州)を控え、世界ランキング上位者が多く欠場する中で、5名の日本選手が出場し、開幕から12試合連続でトップ10入りを目指しています。◆リビエラマヤ・オープン 8年ぶりにメキシコで開催されるLPGAツアーの新大会。会場はカリブ海を望むマヤコバにあるエル・カマレオンGCで、2006年にグレッグ・ノーマンが設計しました。熱帯のジャングル、密集したマングローブ、カリブ海の海岸線という3つの異なる自然が広がるレイアウトになっています。◆放送&配信 WOWOWはメジャー3大会を含むLPGAゴルフツアーの29大会を放送・同時配信します。WOWOWオンデマンドでは日本人選手専用のカメラも全大会で配信します。

【競輪】“関東の総大将”平原康多が電撃引退 現役SS班のまま23年間の現役生活に終止符

長年にわたって競輪界の“関東の総大将”として活躍してきた平原康多(42)が電撃的に引退することが22日、発表されました。23日には日本競輪選手会の埼玉支部に選手手帳を返納し、異例のSS班のままでの引退を決断しました。これは過去に例がなく、大けがの繰り返しにもかかわらず、昨年のG1日本選手権(いわき平)で「ダービー王」に輝きましたが、1年後の同じ大会(名古屋)で限界を感じたようです。関東の後輩たちの成長を見届け、約23年にわたる現役生活に幕を下ろします。    ◇    ◇    ◇競輪界において、神山雄一郎や武田豊樹から受け継いだエースの座を平原は重責として一身に背負ってきました。ですが、2度の大けがが引退の要因となりました。23年4月のG3武雄記念で肩甲骨を骨折し、さらに復帰した6月のG1高松宮記念杯では左股関節をひどく負傷しました。その後はヘルニアや坐骨神経痛に悩まされ、自宅の階段を上がるのも辛いほどの慢性的な腰痛に苦しみました。そうした中、昨年5月にはいわき平のG1日本選手権で念願の初優勝を果たしました。「絶好調でも勝てないのに、こんな調子で勝てるとは。競輪は面白いですね」と感慨に浸りましたが、体調は回復せず、落車も続きました。今年4月の日本選手権では、ディフェンディングチャンピオンとして安定した走りを見せ、初日特選での2着で準決勝行きを決めましたが、そこで自分の限界を感じたといいます。「真杉匠選手に遅れてしまい、自転車が思うように進まないと感じました。もう限界だなと思いました」。黄金期には自身の自力型時代を、「空中からレースを操っているような感覚」だったと振り返ります。武田豊樹との「関東ゴールデンコンビ」の強力な連携は、互いにビッグレース勝利をもたらしました。「武田さんの優勝は自分のことのように嬉しかった」と話すほど、強固な絆で結ばれていました。23年の西武園オールスターでは、吉田拓矢の後ろから真杉匠が初タイトルを手に入れ、その場面に平原も貢献しました。昨年は自身が吉田の後ろからダービーを制し、今年のダービーでは、真杉の後ろから吉田が勝つシーンを見届けました。「彼らに関東を任せられると思うと安心です」と話す平原。彼が一人で抱えてきた大きな荷物をようやく降ろすことができました。◆平原康多(ひらはら・こうた)1982年(昭和57年)6月11日、埼玉県狭山市生まれ。42歳。県立川越工業高校卒業。競輪学校(現養成所)87期生として02年8月に西武園でデビューし、G1では09年びわこ高松宮記念杯から昨年のいわき平日本選手権(ダービー)まで計9勝を挙げました。G2は06年ふるさとダービー富山、18年高知共同通信社杯の2勝。通算1614戦511勝、優勝61回。22日現在の通算獲得賞金は17億1407万2900円。185センチ、95キロ、血液型A型。父は康広(28期、引退)、弟は啓多(97期)。

【ロッテ】池田来翔2打席連発5打点の大暴れ、いつも隣にいるのは同い年のライバル

ロッテ池田来翔内野手(25)が2本塁打5打点の活躍でチームの勝利に貢献した。6回2死一、二塁から、マリーンズファンの待つレフトスタンドへ3ラン本塁打。「カウントが3-2だったのでコンパクトに強く振ることだけを考えてました。打つことができて良かったです」と振り返った。7回にもプロ初の2打席連続本塁打。まるで前の打席のリプレーのような左翼への2ランを放ち、計5打点と大暴れした。笑顔でナインとハイタッチをした。苦しいとき、必ず隣には一緒に頑張るライバルの姿があった。同い年、同じ内野手の安田尚憲だ。春季キャンプではともに宮崎・都城でのB班スタート。全体練習後、池田は必ずサブロー2軍監督とみっちり打撃練習。毎日、隣には福浦1軍・2軍統括打撃コーディネーターのもとでバットを振り続ける安田の姿があった。4月17日、ファーム楽天戦でそろって失策を記録。試合後、西日に照らされながら2人で納得のいくまで、約1時間のノックを受けた。練習後、泥にまみれたユニホーム姿でそろってグラウンドから出てきた。池田は「彼も同じポジションですし、2人では同じポジションだから、みたいな話はします。仲はいいですけど、どっちかが試合に出られないから。一応僕らの中でも同じポジションっていうのは多分思ってる」と胸の内を明かした。この日はともに先発出場し、安田も4出塁含む2安打1打点の活躍。ロッテの99年世代2人で計4安打6打点と輝きを放った。7回には、先頭の安田が四球で出塁した。2死一塁から池田が2ランを放ちダイヤモンドを1周すると、先にホームに戻った安田が笑顔で待ち構えていた。つらい練習を乗り越えてきた友と笑顔でハイタッチし、喜びを分かち合った。これからも切磋琢磨(せっさたくま)しながら、チームをけん引していく。【星夏穂】【関連記事】ロッテニュース一覧

レアル、モドリッチの退団公式発表 クラブ史上最多28タイトルを獲得した13年のキャリアに終止符

レアル・マドリードは22日、クロアチア代表MFモドリッチ(39)がFIFAクラブW杯(ワールドカップ)後に退団することを発表した。9月に40歳の誕生日を迎えるモドリッチの、Rマドリードとの現行契約は今年の6月30日までだが、その期間を延長し、来月14日に米国で開幕するクラブW杯の終了後に、同クラブでの13シーズンの長きキャリアに終止符を打つことになった。スペイン紙マルカは、この状況を受け「39歳のザダル(クロアチア)出身の天才は今季、才能が老いることはないことを証明してきたが、Rマドリードは彼抜きで将来を見据えることを選択した」と説明した。モドリッチは12年夏にトットナムからRマドリードに加入した。それ以降の13シーズンで公式戦590試合に出場して43得点を記録。欧州で最も大きな成功を収めているクラブで一時代を築く選手となった。クラブ史上最多の28タイトル(欧州チャンピオンズリーグ=CL=6回、クラブW杯5回、インターコンチネンタルカップ1回、欧州スーパーカップ5回、スペインリーグ4回、国王杯2回、スペイン・スーパーカップ5回)を獲得した。個人としては18年にバロンドール、FIFA年間最優秀選手賞、欧州年間最優秀選手賞を受賞し、世界のプロサッカー選手による投票だけで決まるFIFA/FIFProワールドイレブンにも6度、選出されている。代表チームでは、クロアチア史上最多の186試合に出場。18年のW杯ロシア大会では準優勝、続く22年カタール大会では3位に輝き、両大会でそれぞれ、ゴールデンボール賞とブロンズボール賞を受賞した。今季、MF陣の中で唯一負傷が1度もなく、Rマドリードがここまでに戦った公式戦61試合のうち、キャリア最多となる56試合に出場。4得点3アシストを記録した。けが人続出の影響を大きく受けてメジャータイトル無冠に終わったチームに、大きく貢献したものの、Rマドリードでクラブチームでのキャリアを終えた後、来年のW杯北中米大会を最後に引退するという夢は、かなわなくなった。モドリッチは退団に際して、自身のインスタグラムでRマドリードへの思いや感謝をつづった。「親愛なるマドリディスタ(Rマドリードサポーター)へ。ついにその時がやって来た。決して来てほしくなかった瞬間だが、それがサッカーというものであり、人生には全て始まりと終わりがある。今週土曜日(レアル・ソシエダード戦)にサンティアゴ・ベルナベウで最後の試合を戦う」「僕は世界最高のチームのユニフォームを着るという希望と、大きなことを成し遂げるという野心を抱いて2012年に加入したが、その後に何が起こるかは想像もしていなかった。Rマドリードでプレーしたことで、サッカー選手や人間としての僕の人生が変わった。史上最高のクラブで最も大きな成功を収めた時代の1つに参加できたことを誇りに思う」「クラブ、特にフロレンティーノ・ペレス会長、チームメイト、監督、そしてこの間ずっと僕をサポートしてくれた全ての人たちに心から感謝したい。何年にも渡り、信じられないような瞬間、不可能と思えた逆転劇、決勝戦、セレブレーション、ベルナベウでの魔法のような夜を経験してきた…。僕たちは全てを勝ち取り、僕は本当に本当に幸せだった」「でもタイトルや勝利以上に、僕はマドリディスタのみんなの愛情を、心の中に抱いている。君たちとどれだけ特別な絆で結ばれ、支えられ、リスペクトされてきたか、どれだけ愛されてきたか、そして今、感じていることをどう説明すればいいか、本当に分からない。君たちが示してくれた拍手喝采や愛情のジェスチャーを決して忘れることはないだろう」「僕は心が満たされた気持ちで退団する。誇りと感謝、そして忘れられない思い出でいっぱいだ。クラブW杯の後、このユニフォームをピッチで着ることはないだろうが、僕はいつまでもマドリディスタだ」「また会えるだろう。Rマドリードは生涯に渡り、いつまでも僕のホームだ。アラ、マドリード。それ以上のものはない」(高橋智行通信員)