【競輪】“関東の総大将”平原康多が電撃引退 現役SS班のまま23年間の現役生活に終止符

長年にわたって競輪界の“関東の総大将”として活躍してきた平原康多(42)が電撃的に引退することが22日、発表されました。23日には日本競輪選手会の埼玉支部に選手手帳を返納し、異例のSS班のままでの引退を決断しました。これは過去に例がなく、大けがの繰り返しにもかかわらず、昨年のG1日本選手権(いわき平)で「ダービー王」に輝きましたが、1年後の同じ大会(名古屋)で限界を感じたようです。関東の後輩たちの成長を見届け、約23年にわたる現役生活に幕を下ろします。
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競輪界において、神山雄一郎や武田豊樹から受け継いだエースの座を平原は重責として一身に背負ってきました。ですが、2度の大けがが引退の要因となりました。
23年4月のG3武雄記念で肩甲骨を骨折し、さらに復帰した6月のG1高松宮記念杯では左股関節をひどく負傷しました。その後はヘルニアや坐骨神経痛に悩まされ、自宅の階段を上がるのも辛いほどの慢性的な腰痛に苦しみました。
そうした中、昨年5月にはいわき平のG1日本選手権で念願の初優勝を果たしました。「絶好調でも勝てないのに、こんな調子で勝てるとは。競輪は面白いですね」と感慨に浸りましたが、体調は回復せず、落車も続きました。
今年4月の日本選手権では、ディフェンディングチャンピオンとして安定した走りを見せ、初日特選での2着で準決勝行きを決めましたが、そこで自分の限界を感じたといいます。「真杉匠選手に遅れてしまい、自転車が思うように進まないと感じました。もう限界だなと思いました」。
黄金期には自身の自力型時代を、「空中からレースを操っているような感覚」だったと振り返ります。武田豊樹との「関東ゴールデンコンビ」の強力な連携は、互いにビッグレース勝利をもたらしました。「武田さんの優勝は自分のことのように嬉しかった」と話すほど、強固な絆で結ばれていました。
23年の西武園オールスターでは、吉田拓矢の後ろから真杉匠が初タイトルを手に入れ、その場面に平原も貢献しました。昨年は自身が吉田の後ろからダービーを制し、今年のダービーでは、真杉の後ろから吉田が勝つシーンを見届けました。
「彼らに関東を任せられると思うと安心です」と話す平原。彼が一人で抱えてきた大きな荷物をようやく降ろすことができました。
◆平原康多(ひらはら・こうた)1982年(昭和57年)6月11日、埼玉県狭山市生まれ。42歳。県立川越工業高校卒業。競輪学校(現養成所)87期生として02年8月に西武園でデビューし、G1では09年びわこ高松宮記念杯から昨年のいわき平日本選手権(ダービー)まで計9勝を挙げました。G2は06年ふるさとダービー富山、18年高知共同通信社杯の2勝。通算1614戦511勝、優勝61回。22日現在の通算獲得賞金は17億1407万2900円。185センチ、95キロ、血液型A型。父は康広(28期、引退)、弟は啓多(97期)。